東海道五十三次 浮世絵師 安藤広重

安藤広重は有名な浮世絵師である。ご存知東海道五十三次は傑作中の傑作として、多くの人に知られている。
55年前「永谷園本舗」が景品として出していた東海道五十三次のセット(模造品)[clickで拡大] ⇒ ダンジリ

日本橋 明六つ日本橋の風景。大名行列が下に〜下に。魚屋が忙しげに動く様子。 ◇日本橋1 ◇品川宿2 ◇川崎宿3 ◇神奈川宿4 
◇保土ヶ谷宿5 ◇戸塚宿6 ◇藤沢宿7 ◇平塚宿8 
◇大磯宿9 ◇小田原宿10 ◇箱根宿11 ◇三島宿12
◇沼津宿13 ◇原宿14 ◇吉原宿15 ◇蒲原宿16
◇由井宿17 ◇興津宿18 ◇江尻宿19 ◇府中宿20
◇鞠子宿21 ◇岡部宿22 ◇藤枝宿23 ◇島田宿24
◇金谷宿25 ◇日坂宿26 ◇掛川宿27 ◇袋井宿28
◇見附宿29 ◇浜松宿30 ◇舞坂宿31 ◇荒井宿32
◇白須賀宿33 ◇二川宿34 ◇吉田宿35 ◇御油宿36
◇赤坂宿37 ◇藤川宿38 ◇岡崎宿39 ◇池鯉鮒宿40
◇鳴海宿41 ◇宮宿42 ◇桑名宿43 ◇四日市宿44
◇石薬師宿45 ◇庄野宿46 ◇亀山宿47 ◇関宿48
◇阪之下宿49 ◇土山宿50 ◇水口宿51 ◇石部宿52
◇草津宿53 ◇大津宿54 ◇京都55
日本橋  明六つ日本橋の風景。大名行列が下に〜下に、大名行列は早立ちだ。。魚屋が忙しげに動く様子、活きのよい魚を朝の町に届ける準備だ。犬も餌にありつこうと早起きだ。♪お江戸日本橋〜 一、日本橋 朝の景
 ◇明六つ日本橋の風景。大名行列が下に〜下に。魚屋が忙しげに動く様子。
品川宿 帆に風を一杯受け品川宿に帰ってきた。次の川崎宿に向かう舟も帆を張っているのだろう。沖には帆を畳んだ舟が漂う。 大名行列の最後尾が描かれいる。色町としても名が通り賑わいを見せていた。 二、品川宿 日の出
 ◇大名行列の最後尾が描かれいる。色町としても名が通り賑わいを見せていた。
川崎宿  川崎大師が近く、参拝客で賑わったようだ。多摩川の「六郷の渡し」は江戸との架け橋的役割。常に十隻ほどの船で旅人や荷馬を渡していた。富士山が高々と聳える。さぞかし眺めがよかったのだろう。 三、川崎宿 六郷渡し舟
 ◇多摩川の「六郷の渡し」は江戸との架け橋的役割。常に十隻ほどの船で旅人や荷馬を渡していた。
神奈川 神奈川宿は、神奈川湊の近くに作られた宿場町である。旅人を呼び込む光景、呼び込み女の腕の見せ所だ。これから出て行く舟、帆を畳む舟、漁をしているのか小さな舟が見える。 四、神奈川宿 臺の景
 ◇神奈川宿は、神奈川湊の近くに作られた宿場町である。旅人を呼び込む光景。
保土ヶ谷宿 保土ヶ谷に着くころ、夕闇が迫る。新町橋を渡る旅人も、心なしか急ぎ足である。橋の向こうに「二八そば」の行灯の明かりが見える。宿場を少し外れると、辺りは静かな田園風景になる 五、保土ヶ谷宿 新町橋
◇保土ヶ谷に着くころ、夕闇が迫る。新町橋を渡る旅人も、心なしか急ぎ足である。橋の向こうに、二八そばの行灯の
戸塚宿 戸塚宿が東海道と鎌倉道(浦賀道)の分岐点。吉田橋は長さ八間(約14m)であった。こめやという茶屋の看板、左へかまくら道と刻んだ道しるべが。 六、戸塚宿 かまくら道
◇戸塚宿が東海道と鎌倉道(浦賀道)の分岐点。吉田橋は長さ八間(約14m)であった。こめやという茶屋
藤沢宿 踊り念仏で知られる一遍を開祖とする時宗の総本山。境内には幹回り6.8mという大木「銀杏の大木」がある。手前に見える鳥居は江ノ島弁天の一の鳥居
七、藤沢宿 遊行寺
◇江戸時代中頃以降は、大山道や江の島道の分岐点として、大山詣りや江の島詣での旅人の拠点とな り賑わう
平塚宿 左に見える丸い山は高麗山(こまやま)当時は高麗寺山。飛脚がすれ違う様。空の飛脚と荷を届ける途中の飛脚 八、平塚宿 繩手道(田の間の畦道)
◇左に見える丸い山は高麗山(こまやま)当時は高麗寺山。飛脚がすれ違う様子
大磯宿 虎御前、大磯の遊女であったお虎さん。曽我祐成の妾とか。雨が降ってきた。馬に乗る人、野良仕事から帰る人 九、大磯宿 虎ヶ雨
◇虎御前、大磯の遊女であったお虎さん。曽我祐成の妾とか。雨が降ってきた。馬に乗る人、野良仕事から帰る人
小田原宿 大名の籠なのか大勢の川渡し人足が担ぐ櫓が川の真ん中ほどへ。対岸に小田原城と険しい箱根山が見える。幕府の政策上で橋は架けられなかった。 十、小田原宿 酒匂(さかわ)川
◇大名の籠なのか大勢の川渡し人足が担ぐ櫓が川の真ん中ほどへ。小田原城下と箱根連山が見える。
箱根宿 箱根宿は京都と江戸を結ぶ要地であった。昼尚暗き箱根山は厳しく旅人の行方を遮ったのだろう。目を山間に移すと湖水の光景がが一服の清涼剤になった。 十一、箱根宿 湖水
◇箱根宿は京都と江戸を結ぶ要地であった。昼尚暗き箱根山は厳しく旅人の行方を遮ったのだろう。目を山間に移
三島宿 朝霧の深さが景色のぼやけた・・なぜ。馬の背、籠の旅人は傘を深くかぶり顔が見えない。三島宿は東海道一女郎衆が多かった為なのだろうか。 十二、三島宿 朝ぎり
◇朝霧の深さが景色のぼやけた・・なぜ。馬の背、籠の旅人は傘を深くかぶり顔が見えない。
沼津宿 月が丁度昇ってきた。天狗の面を背負った旅人が急ぐ。金比羅参りの途中なのだろ。金比羅参りはの図にはよく天狗の面が使われたという。母娘の旅人が宿を目指している。母親の手に柄杓、施しをもらいながらの旅なのだろうか。 十三、沼津宿 黄昏
◇月が丁度昇ってきた。天狗の面を背負った旅人が急ぐ。金比羅参りの途中なのだろ。母娘の旅人が宿を目指して
原宿 東海道一小さな宿場町であった。何処までも続く一本道、その途中で唯一雄大な富士山を拝めるのだった。水鳥の鳴く声に振り返る旅人、天秤の荷物を担ぐのはお供の者か。 十四、原宿 朝の富士
◇原宿は東海道一小さな宿場町であった。何処までも続く一本道、その途中で唯一雄大な富士山を拝める
吉原宿 東海道は東から西に向かって進む。富士山の美しい姿を右手に見ることができる。吉原宿のこの辺りは松並木の間から左手に富士山が見えることから左富士と呼ばれる。吉原宿の手前で大きく迂回しているからだろう。 十五、吉原宿 左富士
◇東海道は東から西に向かって進む。富士山の美しい姿を右手に見ることができる。吉原宿のこの辺りは松並木の
蒲原宿 蒲原はめったに雪などの降らない温暖の地であった。寒そうに身を屈め行きかう人の足が急ぐと言う絵だが、はたして雪が降っているのだろうか。それとも広重の創作か。 十六、蒲原宿 夜の雪
◇蒲原はめったに雪などの降らない温暖の地であった。寒そうに身を屈め行きかう人の足が急ぐという
由井宿 薩た峰から眺める富士山は東海道一の絶景である。駿河湾が美しい。由井正雪の生家がある。現在は東名高速道路からの眺めが絶景。 十七、由井宿 さつた峰
◇薩た峰から眺める富士山は東海道一の絶景である。駿河湾が美しい。由井正雪の生家がある。
興津宿 難所の薩た峰を越えて旅人は胸をなでおろす。旅人は興津宿で旅装を解きしばしの休息を取る。通ってきた難所を見上げているのだろうか。 十八、興津宿 興津川
◇難所の薩た峰を越えて旅人は胸をなでおろす。旅人は興津宿で旅装を解きしばしの休息を取る。
江尻宿 絵の中程に湾の中程まで延びる三保の松原、羽衣の松も訪れた人々の心を癒す。東海道一の大親分清水の次郎長の里。「旅行けば 駿河の国に茶の香り・・・・」 十九、江尻宿 三保の松原
◇湾の中程まで延びる三保の松原、羽衣の松も訪れた人々の心を癒す。東海道一の大親分清水の次郎長の里。
府中宿 徳川家康はこの地をおさめ駿府城を築城した。安倍川餅の発祥地安倍川である。静岡県に位置し現在も安倍川餅を売っている店がある。弥次さん喜多さんもこの地で安倍川餅を頬張ったのかな。 二十、府中宿 安部川
◇徳川家康はこの地をおさめ駿府城を築城した。安倍川餅の発祥地安倍川である。静岡県に位置
鞠子宿 土地柄自然薯が有名。街道にある名物茶屋ではトロロ飯を食わしてくれた。現在でもこの茶屋は営業している。旅人がこの茶屋のトロロ飯で腹ごしらえをしている。 二十一、鞠子(まりこ)宿 丸子名物茶屋
◇土地柄自然薯が有名。街道にある名物茶屋ではトロロ飯を食わしてくれた。現在でもこの茶屋は営業
岡部宿 宇津谷峠は丸子と岡部宿を結ぶの山越えの道である。大きな旅籠はなかった。道中の山間は木々が鬱蒼と生い茂り、昼尚暗かったようだ。 二十二、岡部宿 宇津の山
◇宇津谷峠は丸子と岡部宿を結ぶの山越えの道である。大きな旅籠はなかった。駕籠かきと茶屋の商売が
藤枝宿 藤枝宿の問屋場風景を描いている。当時は流通において大事な機関で役人達が汗を拭きながら作業にあたっている。人馬の継ぎたて、人足の手配、荷物の賃料を決めたりと、忙しかった様 二十三、藤枝宿 人馬残立
◇藤枝宿の問屋場風景を描いている。当時は流通において大事な機関で役人達が汗を拭きながら作業に
島田宿 ここは大井川の東岸である。大井川には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の馬子唄が有名で、長雨などになると川留めされて宿場は大層賑わった。駿岸とは駿河側を言う。♪島田女郎衆はの〜えん 二十四、島田宿 駿岸
◇ここは大井川の東岸である。大井川には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」の馬子唄が
金谷宿 金谷側を見た大井川の川渡し風景だろう。金谷側に渡る旅人を描いている。金谷宿も川止めになると足止めの客で大いに賑わった。遠くに見える変わった形の山は実際は無かったとか。 二十五、金谷宿 大井川遠岸
◇金谷側を見た大井川の川渡し風景だろう。金谷側に渡る旅人を描いている。金谷宿も川止めになると
日坂宿 日坂(にっさか)の宿は峠越えの旅人のために作られた。小夜の山中峠は箱根峠、鈴鹿峠と並んで東海道の最大の難所であった。日坂宿は小さな宿場であった。転がっている大きな石は遠州七不思議の夜啼き石。夜になると啼くという。 二十六、日坂宿 佐夜中山
◇日坂(にっさか)の宿は峠越えの旅人のために作られた。小夜の山中峠は箱根峠、鈴鹿峠と並んで
掛川宿 掛川辺りの平野は凧揚げが盛んだったのか。糸が切れて凧が逃げていく。子供が手をかざしながら逃げた凧を追いかける。向こうから供を連れた僧侶がやってくる。すれ違う人々は腰を低くして頭を下げる。僧侶を敬っているのだろう。遠くに見えるのが秋葉山だ。 二十七、掛川宿 秋葉山遠景
◇凧の糸が切れて逃げていく。子供が手をかざして凧の行方を追う。向こうから供を連れた僧侶がやってくる。
袋井宿 夏の暑い盛りであろうか。大きな木の葉陰を利用して人足や旅人が休憩をしている。右手の立て札には燕と思える鳥がとまっている。 二十八、袋井宿 出茶屋の図
◇夏の暑い盛りであろうか。大きな木の葉陰を利用して人足や旅人が休憩をしている。右手の立て札には
見附宿 天竜川中州を挟んで大天竜と小天竜の流れがあった。水深がかなりあり舟渡しであった。この絵は中州で舟の乗り継ぎをしている光景。 二十九、見附宿 天竜川
◇天竜川中州を挟んで大天竜と小天竜の流れがあった。水深がかなりあり舟渡しであった。この絵は中州で
浜松宿 見附を出ると再び海沿いに。遠くに浜松城が見える。冬の寒い日なのだろう、雲助たちが松の根元で焚き火をしている。又旅姿の旅人が火を借りて煙草に火をつける。股旅が「寒みいな、あたらしてくれ」雲助が「おう、あたんな」と言ったとか、さぞや寒かったのだろう 三十、浜松宿 冬枯の景
◇遠くに浜松城が見える。冬の寒い日なのだろう、雲助たちが松の根元で焚き火をしている。又旅姿の旅人が
舞阪宿 浜名湖に漁をしている舟が浮かんでいる。帆掛け舟が「今切の渡し」で西岸の新居宿に向かう。今切とは舞阪と新居の間の海のこと。 三十一、舞阪宿 今切の渡
◇浜名湖に漁をしている舟が浮かんでいる。帆掛け舟が「今切の渡し」で西岸の新居宿に向かう。
荒井宿 家康は交通の要所であった新居に関所を設けた。女性の通行と武器の移動には厳しい取締りをした。通行手形の無い女は「調べ女」を使い特に厳しく調べたようだ。帆を立て吹流しを立てた舟は大名の乗った舟だ。 三十二、荒井宿(新居) 渡舟の図
◇家康は交通の要所であった新居に関所を設けた。女性の通行と武器の移動には厳しい取締りを
白須賀宿 旅人は汐見坂に入ると駿河が近い事を知る。汐見坂は曲がりくねった長い坂道で坂の上では遠い富士山も望めた。坂の上から下を見ると遠州灘が広がる。丁度大名行列が通り掛った所だ。 三十三、白須賀宿 汐見坂
◇旅人は汐見坂に入ると駿河が近い事を知る。汐見坂は曲がりくねった長い坂道で坂の上では遠い富士山も望
二川宿 看板には名物柏餅餅の文字が見える。猿が馬場の名物だったようだ。疲れた体に甘い物、立ち寄って一寸一服の図。三人連れの女芸人が矢張り柏餅を目当てに茶屋に向かう。現在でも江戸時代の町の名残がある。 三十四、二川宿 猿ヶ馬場
◇看板には名物柏餅餅の文字が見える。猿が馬場の名物だったようだ。疲れた体に甘い物、立ち寄って一寸
吉田宿 男の旅人の多くは飯盛り女を目当ての客が多かった。当時橋の袂から舟に乗り、伊勢神宮にお参りする人も多かった。吉田城の櫓の修復、豊川橋、遠くの山の風景を描いている。 三十五、吉田宿 豊川橋
◇男の旅人の多くは飯盛り女を目当ての客が多かった。当時橋の袂から舟に乗り、伊勢神宮にお参り
御油宿 強引な旅人留女のやり取りがいかにもユーモラス。次の赤坂宿までは僅かの距離だ。何とか客を引き止めようと留女が必死の形相。その様子を飯盛り女が頬づえ付いて眺めている。徳川家康が植えさせ御油の松並木は有名。 三十六、御油宿 旅人留女
◇強引な旅人留女のやり取りがいかにもユーモラス。次の赤坂宿までは僅かの距離だ。何とか客を引き止め
赤坂宿 赤坂宿は飯盛り女を大勢抱えていた。男の旅人はこの宿場で大いにくつろいで英気を養ったのであろう。旅籠は62軒で人口は1300人ほどだったようだ。 三十七、赤坂宿 旅舎娼婦
◇赤坂宿は飯盛り女を大勢抱えていた。男の旅人はこの宿場で大いにくつろいで英気を養ったのであろう。
藤川宿 棒鼻とは棒の先のことで、それを準えて宿場の端を棒鼻といったようだ。藤川の宿は法蔵寺の門前町として賑わった。 この寺は家康ゆかりの寺である。 三十八、藤川宿 棒鼻の図
◇棒鼻とは棒の先のことで、それを準えて宿場の端を棒鼻といったようだ。藤川の宿は法蔵寺の門前町として
岡崎宿 岡崎は徳川家康生誕の地である。矢矧の橋は矢作川に掛かる橋で当時では日本最長の橋であった。橋の向こうに岡崎城が見える。この橋の上で日吉丸と蜂須賀小六が会ったとか。橋を渡るのは大名行列。 三十九、岡崎宿 矢矧の橋
◇岡崎は徳川家康生誕の地である。矢矧の橋は矢作川に掛かる橋で当時では日本最長の橋であった。
池鯉鮒宿 毎年4月から5月に掛けて馬市が立った。また三河地方の特産品の木綿市でも賑わった。街道筋の松並木は馬をつなぐ為にも使われた。現在は知立市 四十、池鯉鮒宿(ちりゅうしゅく) 馬市
◇毎年4月から5月に掛けて馬市が立った。また三河地方の特産品の木綿市でも賑わった。
鳴海宿 有松絞りが有名で鳴海絞とも言われた。有松絞りは紺を使った独特の染物で浴衣や手拭に使われた。尾張藩の特産品。旅の途中の女達は目を奪われた。鳴海宿が栄える元にもなった 四十一、鳴海宿 有松志下り
◇有松絞りが有名で鳴海絞とも言われた。有松絞りは紺を使った独特の染物で浴衣や手拭に使われた。尾張藩
宮宿 東海道では最大の宿場町で旅籠が248軒もあった。熱田神宮があり門前町であった。宮宿と桑名宿の舟の往来で共に栄えた。 四十二、宮宿 浜の旅舎
◇東海道では最大の宿場町で旅籠が248軒もあった。熱田神宮があり門前町であった。宮宿と桑名宿の舟の
桑名宿 今舟が港にに着いた所だ。帆を畳み始めている。帆を畳んだら櫓をこいで渡し口に向かう。宮宿から七里の航海だ。伊勢参りが賑やかな事だろう。その手は桑名の焼き蛤、よい匂いが漂ったことだろう 四十三、桑名宿 七里渡し口
◇今舟が港にに着いた所だ。帆を畳み始めている。帆を畳んだら櫓をこいで渡し口に向かう。宮宿から七里の航海だ
四日市宿 四日市宿は三重川(三滝川)は鈴鹿山脈から流れ出し伊勢湾に注ぐ。河口南側に発達した宿。四日市は伊勢神宮があり伊勢参りの拠点としても栄えたようだ。 四十四、四日市宿 三重川
◇四日市宿は三重川(三滝川)は鈴鹿山脈から流れ出し伊勢湾に注ぐ。河口南側に発達した宿。伊勢神宮が
石薬師宿 石薬師宿は石薬師寺から名づけたものといわれる。泊り客は少なく宿の経営は苦しかったようだ。石薬師寺は富山西福寺瑠璃光院。真言宗。道の先に石薬師寺が見える。その裏には三重の山が連なる。哀愁を感じる風情が。 四十五、石薬師宿 石やくし寺
◇石薬師宿は石薬師寺から名づけたものといわれる。泊り客は少なく宿の経営は苦しかった
庄野宿 激しく降る雨が滝のように白く見えたのだろうか。駕籠かきが慌てて坂を上る。旅人は坂を下る。木々が雨に打たれて大きく揺れ、不気味な様子に旅人は急いだのだろう。 四十六、庄野宿 白雨
◇激しく降る雨が滝のように白く見えたのだろうか。駕籠かきが慌てて坂を上る。旅人は坂を下る。木々が
亀山宿 雪の降った翌朝は目を瞠るほど美しい風景だったのだろう。 四十七、亀山宿 雪晴
◇雪の降った翌朝は目を瞠るほど美しい風景だったのだろう。
関宿 近江の逢坂の関、美濃の不破の関、と並ぶ関所で鈴鹿の関といわれる。大名行列は朝早く出発する。その様子を描いたものだ 四十八、関宿 本陣早立
◇近江の逢坂の関、美濃の不破の関、と並ぶ関所で鈴鹿の関といわれる。大名行列は朝早く出発
阪の下宿 茶屋から眺める岩根山はさぞかし絶景であったのだろう。間を隔てて流れるのが鈴鹿川。あまりの絶景に筆を投げ捨てたという 四十九、阪之下宿 筆捨峰
◇茶屋から眺める岩根山はさぞかし絶景であったのだろう。間を隔てて流れるのが鈴鹿川。
土山宿 「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨がふる」の里謡で知られた土地である。この近辺に田村神社がある。 五十、土山宿 春の雨
◇難所、鈴鹿峠を越えたところが土山。「坂は照る照る鈴鹿は曇る、あいの土山雨がふる」の里謡で 知られる
水口宿 女達がせっせと干瓢を作っている。水口名産だ 五十一、水口宿 千瓢
◇土山を過ぎて暫くすると水口の平地に出る。干瓢を作る光景があちらこちらに見える。水口の宿である。
石部宿 ところてんに黒蜜をまぶし食わせてくれた。発祥の地とか。また田楽茶屋としても有名であったらしい。この茶屋が浮世絵を元に再現されている。 五十二、石部宿 目川の里
◇ところてんに黒蜜をまぶし食わせてくれた。発祥の地とか。また田楽茶屋としても有名であったらしい。
草津宿 当時の旅人は「立場」という簡単に食事のできる場所で疲れを癒したのだろう。早籠がすっ飛んでいく。片や御用の荷物なのだろうか。中山道と東海道の分かれ道、追分だ。♪おいしゃさまでも草津の湯でもどっこいしょ 恋の病は〜 五十三、草津宿 名物立場
◇当時の旅人は「立場」という簡単に食事のできる場所で疲れを癒したのだろう。立場とは茶屋の総称だという。
大津宿 名物走井餅茶屋。店の前に「走し井」からこんこんと湧きでている。牛馬はのんびりと京都に向かう。 五十四、大津宿 走井茶屋
◇名物走井餅茶屋。店の前に「走し井」からこんこんと湧きでている。牛馬はのんびりと京都に向かう。
京都宿 五十三次終点の三条大橋。行きかう人も多く、当時の京の町は華やかであったことが伺える。
五十五、京都宿 三条大橋
◇五十三次終点の三条大橋。行きかう人も多く、当時の京の町は華やかであったことが伺える。

「旅は道連れ世は情け」今の時代のように車や飛行機はなく、人々は歩いて旅を楽しんだ。乗り物といえば籠、馬など人や動物の力に頼っていた。東海道五十三次、弥次さん喜多さんはそんな旅を楽しんだのだろう。