ぼだい

仏様は皆様のすることをじっと見ていらっしゃる。人間は往々にしてでたらめ
をします。そのでたらめを少しでもなくす努力をすることが、この世に生か
されています皆々様の努めだと思うのです。

◇私たちの生命
◇合掌
◇二つの物の見方、考え方
◇相馬黒光・新宿中村屋の創始者・夫は相馬愛蔵◇
◇人間として生を受けることは困難である・摩耶山天上寺貫主 伊藤浄厳◇
◇考えてみると、私は実にいろいろな道を・高橋是清◇
◇実はあの講和条約の第一の反対者は・小村寿太郎◇
◇小林の働きは実に偉いものだった・林董◇
◇わが輩だけは必ず出迎えに・伊藤博文◇
◇あはは、それは大変ですよ・小村寿太郎◇
◇絶対多数の勢力はただ・浜口雄幸◇
◇政治家は最高の道徳を・浜口雄幸◇
◇裏をみせおもてを見せて散るもみじ・良寛◇
◇日本陸上競技の父・木下東作◇
◇良寛・人の投ぐるに任せ、◇
◇孟子◇
◇精神一到何事か成らざらん◇
◇孔子◇
◇源義経◇
◇楠木正成◇
◇落ち葉◇
◇千僧供養(せんぞうくよう)◇
◇大安吉日・幸運吉日◇
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私たちの生命 新しい
「阿字の子が 阿字の古里 立ち出でて また立ち還る 阿字の古里」 これは、弘法大師のお弟子、智泉大徳が三十七歳で亡くなられた時、お大師さまが諷誦文(ふじゅもん)の終わりに読まれた歌です。どんな人でも、この世に生まれてくる時は、裸で生まれてきます。ですから、今着ている衣服も、財産も、今持っている全てのものは、この世に来てから得たものです。それらはことごとく、この世でしか通用しません。死んでしまうと、みんな置いていかねばなりません。けれども、命だけは自分のものです。ところが、この生命も、いつまでいるのか、いつかえるのか、わからない。「自分は九十歳まで生きるのだ」と云ってみても、九十歳まで生きる保証はどこにもないのです。そう考えると、この生命ですら、どうやら自分のものではなさそうです。 自分のものであって自分の自由にならないもんです。つまり、私たちの生命というのは、自分で勝手に生きている生命ではなくて、大宇宙の大日如来の恵みの中に生かされている生命なのです。
諷誦文(ふじゅもん)とは〔仏〕仏事で死者の追善のために布施物を三宝に供えて読み上げる文。古くは施主が作り導師に読ませたが、のちには導師などが作るようになった。
合掌 新しい
皆さんは両手のひらを合わせる合掌をしていますか。人は心からお願いや感謝の思いが起こる時、自然と手のひらを合わせ合掌します。また相手の方に心から合掌してお願いされたり、詫びられたりすると心を動かされます。だだし形だけの合掌では、相手の方に何も伝わらないでしょう。純粋な心の思いによって合掌する時、初めて「まごころの姿」があらわれます。そしてその純粋な心こそが仏心ではないでしょうか。仏さまも両手で色々な形の印を結び、自らの誓願や心を表せれます。人も純粋な心を合掌の姿で表せば仏さまになれるのです。また合掌する事は、長生きできる秘訣ではないでしょうか。感謝の心で合掌し、またお仏壇の前で仏さまとご先祖さまに供養と感謝の合掌をすれば、心が安定しストレスを除くことができます。現代の多くの病気の一番の原因は、ストレスだとも言われています。ストレスの無い状態こそが、健康であり幸せなのではないでしょうか。
二つの物の見方、考え方 
ここに、一輪の菊の花が咲いています。和学的な見方では、その菊を花弁、おしべ、めしべと分析、比較して、菊とは何科の植物で、種類は何々と学問的に体系ずけていきます。しかしそれだけでは菊の真実の姿とは言えません。なぜならばそれは、菊をばらばらにしてしまって、そこには菊の命がないからです。
生き生きと咲いている菊の命がそこにはうかがえません。「白菊の 目に立てて見る 塵もなし」 芭蕉
この句は、芭蕉翁が菊の中に融けこんで、秋の青空の中で清純な香りを放っている生きた菊そのものを詠じたものです。これもまた菊の姿の真実の姿です。この見方が宗教的な見方です。肉眼で見るのと、心の目で見るのとの違いがそこにあります。
近年物質文化が高度に進んで、機械が人間に代わって仕事をしてくれるようになりました。考え方もすべて科学的な見方のみが真実で、宗教的な見方、考え方は時代遅れ、迷信的なものとして扱われます。目に見えるもんだけを大切に考える風潮のある今日、目に見えないもの、音に聞こえないものに心を寄せることが大切です。 真言ぼだい会 平成23年8月号より
私は天の配剤というものはよくしたものだとおもう(相馬黒光 新宿中村屋創始者)
明治30(1897)年春、明治女学校を卒業したばかりの相馬黒光(本名・良、旧姓・星)は信州・穂高出身の愛蔵と結婚する。黒光は21歳。東京専門学校(後の早稲田大学)を卒業後、故郷で養蚕の研究や社会奉仕活動に従事していた愛蔵は26歳。黒光の恩師の紹介だった。
黒光の自伝『黙移』によれば、当初、あまり乗気ではなかった結婚のきっかけは、「女学生の身投げ」というゴシップ記事の三面記事だった。黒光がモデルとみられる恋多き女学生が、情痴のもつれから井戸に飛び込んだ、という内容。根も葉もない”ガセネタ”だった。校長の巌本善治はこの新聞社に訂正をもとめ、故郷の母も「信じている」と書き送ってきた。が、周囲は「火のない所に・・・」といった眼つきだった。
そんななかもう一人、《いささかも、そこに疑いや迷いの色がない》人物がいた。「一番に疑惑を生じる筈」の愛蔵だった。
別の黒光自伝『広瀬川の畔』はもう一つの理由を加えている。黒光にはほのかな思いを寄せていた同郷の男性がいた。ところが、その男性が黒光の友人と婚約したと聞き、《『そうだ、一足さきに、あの人たちを出し抜いてやろう』(中略)今思えばあさはかなものでした》。複雑な理由が後押しする格好ではあるが、黒光がのちに感慨をこめて冒頭のように回想した妻夫の誕生だった。
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫
嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)徳川光圀は楠木正成を崇拝していた。
水戸黄門(徳川光圀)は誰もが知っているが、真の偉大さは知られていない。
神戸に楠木正成を祀る湊川神社がある。この正成戦死の地に元禄5(1692)年、光圀は「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建てた。文字は光圀の揮毫(きごう)である。水戸徳川家は幕府を支える御三家の一つだが、光圀は尊皇の念極めて厚く、「我が主君は天子(天皇)なり。今将軍は我が宗室(そうしつ・徳川家の本家)なり。あしく(誤って)了簡(りょうけん・考え)取りちがえもうすまじく・・・」と述べ、これが家訓となった。
徳川幕府の征夷大将軍は朝廷から政権を委任されてはいるが、我が国の中心者は天皇であって将軍はあくまで臣下であり、天皇をお守りすべき侍大将であるという意味である。
この信念に基づき光圀は「大日本史」の編纂(へんさん)を始めた。ここから起こった学問が水戸学である。水戸学の及ぼした影響と感化は絶大であった。天皇を国家の中心に戴(いただ)くわが国の歴史伝説において、光圀が最高の忠臣と仰いだのが楠木正成である。
大楠公への限りない仰慕と崇敬をこめた一言が「嗚呼忠臣楠公之墓」である。西郷隆盛も吉田松陰も坂本龍馬も維新の志士たちはみなこの石碑に額ずき涙を垂れて正成の不滅の忠誠に習わんとしたのである。「嗚呼忠臣楠公之墓」の8文字が志士たちを奮い立たせ明治維新を成就せしめた。湊川神社は明治5年、明治天皇の思し召しにより創建された。 12月1日産経新聞
人間として生を受けることは困難である
仏教では、「生けるもの」「いのちあるもの」を《衆生》といいます。(有情(うじょう)・含生(がんしょう)ともいいます。)この《衆生》という言葉は、通常「生きとし生けるもの」と和訳して用い、この世の命あるものすべてを含めて総称しています。当然私たち人間も例外ではなく、この中に含まれています。(もちろん、説法は人に対する教えなので、衆生を人間と同義に用いている場合が多い。)この《衆生》という捉え方は、仏教の根幹にかかわる深い意味をもっています。すなわち、衆生とは生きものを現象的な形態のみで見ているのではありません。例えば、犬や猫なども人間と同じ生命を共有し、人間と同じくいのちをいとおしむ存在(生命体)なのです。これは、生命という根源的な共通の基底・基盤にまで掘り下げて、すべての生きものを捉えている証であります。換言すれば、人間も他の生きものも、生命という本質においては何ら異なるものではないという認識が根底にあり、納得されているのであります。したがって、人間は決して万物の霊長ではなく、人間も当然衆生の一員であるという自覚であり了知なのです。この人間把捉は、仏教の持ち出した人間観であり、世界思想史・世界宗教史上において最もすぐれた人間観であると断言できるのもであります。
私たちは、人間としてこの世に生まれて生きています。この人間であり得ているという事実は、あらゆる生きものの世界に視野を広げて見れば、まことに得難く希有のことといえるのであります。
ところで、地球上にいる生き物の数はいったいどれくらいなのでしょうか。おそらく学者も知らないと思います。だが「種」の数はある程度わかっているそうです。例えば、昆虫類だけでも七十五万種だといいます。この昆虫の一つである蟻だけでも、それこそ無数です。細菌などの微生物に至ってはそれこそ数えようがない筈であります。かく考えてみると、人間としてこの世に生まれ合わせたという事実は、とてつもなくあり得難いほど希有なることと納得できるのであります。
摩耶山天上寺貫主 伊藤浄厳(いとうじょうごん)「仏教のめざすもの」より
どんな政府が最善といえようか? 我々自身で政治をすることを教えてくれる政府だろう (ゲーテ『箴言(しんげん)と省察』)
民主党代表選の熱気がさめぬうちに、ゲーテの政治観をもう少々紹介したい。「多数派ほど厄介なものはない。なぜなら、有力なトップ層のまわりに野合したごろつきや弱虫、さらに自分たちが何を求めているかさえ分らずに追随するその他大勢から構成されているからだ」80歳のゲーテの慨嘆である。勝利にわく後世の「多数派」に対する冷や水というより、「そうなるなよ」という警告だと考えるべきだろう。《命令を下すべき者は命令するというただそのことだけに、天福を感じなくてはならない》 首相といわず、代表といわず、ぜひ銘じていただきたい、上の一文はゲーテの遺作「ファウスト」の第二部から。政治と享楽の二兎を追う皇帝に対する、ファウスト博士のいましめの言葉である。 そうそう、こんな警句もあった。 《一度打ち立てられるか、評判になるか、または認められた権威というものひは大きな価値がある。しかし、なにごとにつけて権威をほしがるのは小人物である》 最後は所信や公約など、政治家の生命といわれながら、最近とみに価値が下落した観のある「ことば」について。 《ことばそれ自体が正義であったりするわけではない。ことばの主である人間そのものが、ことばの価値を決めるのだ》
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年9月15日
考えてみると、私は、実に、いろいろな道を通って来た。私の運命は、生れ落ちるときから尋常ではなかったといえる
(高橋是清)
まさにその通り。高橋是清の前半生、更にその半分だけを切り取っても、十分に波瀾万丈である。生母に会ったのは2歳のころ一度きり。大店の菓子屋の養子に出されそうになったり、騎馬に踏み殺されそうになったのは序の口だある。13歳のとき、仙台藩から米国留学に派遣された(これも不行状のためにすんでのところで取り消されるところだった)のはいいが、あっせんした米国商人は、高橋を学校にいれるどころか、別の米国人に奴隷として売りつけた。《「生意気なっ!」といっていきなり私の頬をなぐった。私は撲られたひょうしに思わず屁がでた》(自伝)。自由を求めて主人に暇を請うたときの情景である。すでにこのころから、悲運にあっても野太いユーモアが漂う高橋がいる。《子供の時から今まで、一貫して、どんなつまらない仕事を当てがわれた時にも、その仕事を本位として決して自分に重きを置かなかった。だから、世間に対し、人に対し、或いは仕事に対しても、未だ曾て一度も不平を抱いたことがない》これは高橋の人生訓だが、このときばかりは例外だった。彼は米国を脱出し、明治維新が成就したばかりの日本を目指す。
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年7月19日
実はあの講和条約の第一の反対者は俺(わし)じゃった(小村寿太郎)
1905(明治38)年、米国東北部・ポーツマス。8月10日に幕を開けた日露講和条約は予定通り、難航した。焦点は賠償金(米国の意向を受け、「実費払戻」と表現を弱めていた)と領土割譲だった。「まるで戦勝国のようではないか」と皮肉る全権の小村寿太郎に「戦勝国などはない。だから敗戦国も存在しない」と応酬するロシア側全権のウィッテ。開始1週間後のこのやり取りが交渉現場を最もよく伝えているだろう。ロシア側の強気には理由があった。過去の陸戦は基本的に清国の領土(満州)内で行われ、ロシア領だったのは交渉直前に占領された樺太のみ。また、ロシアは新兵を投入し、約100万の兵力を整えつつあった。さらに当初は好意的だった米国世論は「日本は借金のために戦争を続けるのか」と批判に転じていた。「賠償金は放棄。樺太はこのまま領有したいが、無理ならば樺太も放棄」東京からこの最終回訓が届くと、全権団事務所は悲嘆の声と号泣に包まれた。小村はひとり平然としていた。だが、心中はちがっていた。条約締結反対の声が渦巻き、焼き討ち事件が起きたことを聞いたとき、彼は冒頭のように語っていたという。
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年6月11日
君の帰朝の時には他人はどうであろうとも、わが輩だけは必ず出迎えにゆくよ(伊藤博文)
日露戦争の開戦と同時に、主役は外務省から陸海軍に移った。が、外相の小村寿太郎が手をこまねいているはずはない。「日本は現在、ロシアと係争している問題以外は(清国における欧米各国の利権を尊重する)現状維持をもって満足する」。開戦から1年がたとうとしていた明治38(1905)年1月、小村はそんなメッセージを米国に送っている。のちに「自分はあたかも日本外務省の役人のごとし」と一笑したという米国のルーズベルト大統領ほど、仲介者にふさわしい人物はなかった。欧州では、日露の講和をあっせんし、その報酬として清の領土の割譲をもくろむ動きがあった。大統領はそんな野心とは無縁だった。同じ年5月の日本海海戦での完勝を契機に、米・ポーツマスで日露講和会議が開かれることになった。冒頭は「煙火一発打ち上げ、楽隊は一斉に奏楽し、数千の出迎人また万歳を呼ぶ。その混雑名状すべからず、実に未曾有の盛況」(東京朝日新聞)だった見送りを前に元老、伊藤博文が全権の小村にかけたことばだ。一方、ロシアのニコライ二世は露全権団にこう命じていた。「一寸の地も、一ルーブルの金も日本に与えるべからず」
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年6月10日
小村の働きは実に偉いものだった。あれだけの大問題に関し元老をイグノーア(無視)し、しかもその位地は微動だにしなかった。(のちの外相、林董(ただす))
「あれだけの大問題」とは明治35(1902)年に結ばれ、以降20年間、「日本外交の骨髄」となった日英同盟である。当時英国は世界最強の海軍力と最大の植民地を持ち、「栄光ある孤立」を守っていた。5年前に死去した「カミソリ外相」の陸奥宗光は「英国人は人の憂いを憂いて之を助けんとするドン・キホーテにはあらず」とし、同盟は夢想と断じた。当初「二流」とされた桂太郎首相と小村寿太郎外相が、奇跡を演出したのだ。もっとも元老側にも言い分はある。「日英同盟は拾い物。伊藤(博文)を日露融和いモスクワに行かしたら、英国があわくって据え膳、据える。本当に拾い物じゃったなあ」。ある宴席で一杯機嫌の井上馨がそう桂に同意を求めると、桂は苦しそうに「我々も尽力いたしました」と答えるのが精一杯だったという。見方は多少割れても、日英同盟の当初の目的がロシア対策だったことに変りはない。この陸軍大国は1900年前後の義和団の乱(北清事変)で鎮圧名目で出兵した満州を事実上占領していた。「満州既に露の有とならば、韓国亦(また)自ら全ふする能はず」。小村が作成した日英同盟の意見書である。その通りの危機が、追っていた。
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年6月8日
アハハ、それは大変ですよ。一人でも困っているのに、私みたいなものが二人も三人も出来たら、それこそ世の中はおさまりますまい (小村寿太郎)
「長じて凡物と化した」。明治17(1884)年、小村寿太郎が司法省から外務省に転じたころ、こうささやかれた。29歳。3年前に結婚し、一児の父。新天地では4年で翻訳局長に昇進した。肩書き上はそこそこかもしれない。しかし、「留学一期生」の秀才は、出世に後れを取り、役所では昼飯の弁当が取れず、茶ですますような生活だった。原因は高利貸しからの借金だった。総計1万数千円というから、いまなら3億〜4億円にも上がろうか。もとは故郷の父が事業で失敗した負債と自分の遊興費(小村は「世間では子供の身を心配して早く嫁を貰ってやるが、あれは大間違いです。嫁を貰って放蕩はなかなか止みませぬ」と語ったことがある)とされる。債鬼を逃れて友人宅を転々とする日々。だが、小村は悪びれなかった。上司が援助を申し出たさいには、「高利貸しには返せば終わりだが、上司の金にひとたび膝を屈せば終生伸びない」と断った。「借金は借りるときしか覚えておりません。整理は貸した方でやってくれましたから」。小村は友人の秋山真之にうそぶいたという。が、本当の「整理の主」小村の才を惜しみ、一肌脱いだ友人たちだった。
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年6月3日

[以下、ウィキペディアより(色鉛筆管理人)]
李鴻章と対面した際、巨漢の李に「この宴席で閣下は一番小そうございます。日本人とは皆閣下のように小そうございますか?」と背の低さを揶揄されたのに対して、「残念ながら日本人はみな小そうございます。無論閣下のように大きい者もございます。しかし我が国ではそのような者を『うどの大木』などといい、大事を託さぬ事になっているのでございます」と切り返した。
絶対多数の勢力はただの伊達や見栄ではありません。実力の伴うものでなければなりません。 (浜口雄幸(おさち))  
昭和5(1930)年2月総選挙(2度目の”男子普通選挙”だった)に大勝した首相・浜口雄幸は総裁を務める立憲民政党の議員総会でそう語りかけ、「この実力を以って各種の重要なる国務を遂行し、国利民福を図るべき諸政策の実現を期せんことを、諸君と共に国民の前に誓いたいと思う」と結んでいる。
浜口政権は前年の発足早々、大きく2つの点でその「実力」を試されていた。経済対策と外交問題である。前者については、浜口が「経済界立て直しの根本的要件」と位置づけた金解禁(金本位体制への復帰)を断行した。ときを同じくして米国発の世界大恐慌という”天災”に見舞われたが、浜口は楽観的(この当時、だれもその深刻さを予測できていなかった)だった。一方外交である。「世界平和の維持増進、文化の発達は今日においても、将来においては一層、日英米三国の共同の力によって之に当らざるべからず。故(いたずら)に三国強調の『リング』を離れ、国際関係を悪化させれば、わが国は将来種々の関係において、国際上いうべからざる窮境に立つべし」この信念のもと、浜口は軍縮に挑む。
産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年5月13日
政治家は最高の道徳を行ふものでなければならぬ (浜口雄幸(おさち))       

画像はウィキペディアより
然るに今日滔々(とうとう)たる(多数の)政治家の態度、多くは不謹慎、不真面目にして人を憚(はばか)らず神を恐れず、殊(こと)に其の出処進退を決するに当って、頗(すこぶ)る公明正大を欠き、身辺常に幾多の醜事実の纏綿(てんめん)(連続)するが如きは、国民思想上、国民道徳上、将(はた)又社会風教上に害毒を流すこと、実に甚大なものがある》冒頭のことばのあと、右のように続くが、鳩山政権批判ではない。昭和4(1929)年1月、最大野党・民政党の党首だった浜口雄幸の年頭所感の一文だ。「朝に入って(政権発足で)直ちに実行出来ないやうな議論は、仮令(たとえ)野(党)に在っても之を唱ふべきではなく、その代わり在野当時主義政見は政権を握るや直ちに之を実行に移して、其言論の責を果たさなければならない」浜口が衆議院議員に初当選したときの談話だが、どこかの政権のように迷走のすえの”有言不実行”はない。4年7月、彼は首相に就任するや、聖域だった軍事費の「大なる整理制約」に挑戦する一方、軍縮を断行する。生命を賭(と)して、軍部に民主主義で対抗したのだ。浜口という政治家は違う。どこがかくも違うのか。それを追ってみたい。 産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年5月13日
誰にも相手に出来ぬ泣くに泣かれぬ時もあるだろう。その時は目を閉じて日本の神様!誰でも良い拝め・・・きっと救われる・・・(日本陸上競技の父、木下東作)
《『勝てば日本の人は盛んに迎えてくれる、然し私は負ける事は解っている、負けた時は日本の人は、私の友は、先輩は、後輩はどんな顔で私を見るか』 /日本人はお互いの感情の現れ方はよく知っていた、私はこれが一番こわかった》1926(大正15)年8月、スウェーデンで開催された第2回国際婦人オリンピック(「女子五輪」)。たった一人の日本代表として参加した人見絹枝は、プレッシャーと不安に苦しんでいた。大会は3日間。絹枝は初日の100ヤードと円盤投げでそれぞれ3位と2位に食い込んだが、優勝はない。2日目。得意の走り幅跳びは最後の1回を残して英国選手に先行されていた。「自信も希望も凡て絶れ」た状態でスタートラインに立ったとき、頭に浮かんだのが木下東作が出国のさいに手向けた冒頭のことばだった。「どうか一度、跳ばしてください」そう祈り、涙ながらに跳躍した先に、栄光があった。君が代の吹奏。そして、日章旗が7万の観衆の前で掲揚されるのを見た絹枝は記している。《泣けるだけ泣いた。(中略)初めて自分は日本の天皇陛下の赤子の一人に成り得たものとおもった》 産経新聞 文化部編集委員 関厚夫 2010年4月19日
うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ [良寛]
「にくきこころをもちて人をしかる」「よくしらぬ事をはばかりなくいふ」、そして「ひとを見かぎりたことをいふ」。前回紹介した良寛の”べからず集”の続きであると筆者はいう。これらを他人に勧めたということは、良寛は己にも課したということ。だから彼は人から招かれ、招いた人たちは、次の印象をもった。「良寛先生がわが家に宿泊すると、みな自然と仲むつまじくなり、そんな和気藹々(わきあいあい)とした気分は、先生が去ってからも数日間は家中に満ちていた。でも先生はときに座禅を組み、火たきの手伝いをするくらいで、お説教をしたり、善行を勧めたりはしなかった。にじみでる人柄と徳に感化された、とでもいえようか」(解良栄重(げらよししげ)著『良寛禅師奇話』) そんな良寛は1830年の夏ごろから体調を崩す。《もろともに踊り明かしぬ秋の夜を 身に病(いたづ)きのいるも知らずて》とは、この年の盆踊りに興じたときの歌だろうか。翌年早々、貞心尼やまな弟子に見守られ、良寛は逝く。享年74(数え)。冒頭は貞心尼が伝える”辞世”だ。今の時期にもみじは季違いだが、かわりに散る桜を想像していただければ幸いである。とある。  2010年4月8日産経新聞より
人の投ぐるに任せ、人の笑うに任す。 更に一物の心地(しんじ)に当る無し(それでも心は一つも動じない) [良寛]
越後・出雲崎の名主「橘屋」の跡取り、山本栄蔵が家を出たのは数えで18歳のときだった。そして彼は出家僧・良寛の名を得、厳しい禅の修業に入る。《少年、父を捨てて他国に走る》良寛がそう漢詩にうたった父、以南は北越有数の俳人だった。が、良寛38歳の1795年、京都・桂川に身を投げる(高野山に身を隠したとの説もある)。15年後、弟、由之が継いだ橘屋は公金流用の罪で家財没収・追放処分を受ける。長年続いた新興名主との勢力争いに負け、財政危機に見舞われていたことが父の末路と橘屋没落の背景にあった。「貧すれば鈍する」良寛は、ある村長が甚だ壮大な自宅をこしらえたと聞いたとき、そう評した。「貧」とは財産ではなく、心の貧しさのことだろう。心が貧しいから、お金にまかせて見栄をとりつくろう。そんなものは一瞬で失われる運命にあるのに。それは書物で得た知識ではなく、良寛の肉親が身をもって示したことだった。そんな良寛は人生の理想を起き上がり小法師にみ、漢詩にうたう。冒頭はその書き出し。《人生もし君に似れば/よく世間に遊ぶ(渡る)に何事かあらん》と結ばれる。 2010年4月5日産経新聞より
誠は天の道なり。誠を思うは人の道なり。至誠にして動かざるもの、いまだこれあらざるなり[孟子] 
孟子(古代中国の思想家)の教えを象徴することばだ。《仁とは人なり。義とは宣(是非のけじめ)なり。合わせてこれをいえば道なり》ともある。誠・仁・義のいずれも、人が歩むべき道に通じるということだろう。道、は偽政者こそがわきまえなければならないものだった。孟子は言う。「国家の災害とは、兵器が足りないことでも、財貨があつまらないことでもない。上の者が道を知らぬために下の者が法を犯すようになり、乱が起こって国が亡ぶことだ」幕末の志士、吉田松陰はそんな孟子を愛した。彼の主著は『孟子』を論じた『講孟余話』。また、「至誠にして--」は晩年の彼の信念だった。しかし、孟子の《君に過ちあれば諫(いさ)め、反復して聴かれざれば去る》という一文については「仁義の真義を知らず」と論難している。「平気で二君仕えるとは何事か。去るものではなくとどまり、諫死(かんし・命をもっていさめる)するのがみちではないか」といいたかったのだろう。松蔭が孟子に覚えた違和感。それは日中両国の国民性の違いの象徴であろう。ただ、こと孟子に関しては、この一文は役職に恋々としないという決意の表れであり、彼はその教えゆえ、君から去るのではなく、追われる人だった。 2010年3月15日産経新聞より
志士は溝壑(こうがく)に在るを忘れず 勇士はその元(こうべ)を喪(うしな)うを忘れず[孔子]
「志士というものは、自分の遺体が路傍に捨てられる覚悟をもち、勇士は自分の首がはねられる覚悟をもつ」。幕末の志士の生涯を語るときによく引用されるこのことばは、孔子が日(のたま)わった--と孟子の言行録『孟子』にある。ここで説明を少々。孟子は孔子に私淑(ししゅく)したとはいえ、孔子の死去から約一世紀後に生まれているから、直接に教えを受けたわけではない。また、孔子の言行録『論語』には、冒頭のことばは見あたらなず、『孟子』が収載した孔子の言には、信憑性が疑われるものもある、という。しかし、冒頭は「孔子」のことばとしてさしつかえないだろう。というのも、仁愛を説いた孔子がその一方で備えていた、こんな激しさをよく伝えているからだ。《こ曰わく、志士仁人は、生を求めて以って仁を害することなし。身を殺して以って仁をなすことあり》 東洋史の大家、宮崎市定は「公平に孔子を評価し、素直に論語を理解するには日本人がいちばん適している」とつづっている。また、日本人が最も親しんできた思想家といえば、やはり孔子だろう。きょうからしばらく、彼とその弟子たちの人ことばをたどってみたい。 2010年3月1日産経新聞より
この上はさのみ意義を申すに及ばず、さては討死仕れとの勅定(天皇のご意思)なれ[楠木正成・太平記より] 
「近日、婆娑羅(ばさら)と称して極めて華美を好み、その流儀や服飾、目を驚かざるはなし。頗(すこぶる)る物狂。最も厳しく取り締まるべきか」。1336年、室町幕府が発足したさいに出された法令・建武式目の第一条(要約)だ。厳禁の対象のはずの婆娑羅はしかし、時代の象徴だった。土岐頼遠(ときよりとお)という美濃の守護がいた。ある夜、光厳(こうごん)上皇の一行に出くわし、下馬を求められたとき、酔いにまかせて「何、院(上皇)だと?犬というか。犬ならば射て落とさん」と言って矢を乱射した。さすがに大問題となり、頼遠は死罪に処せられたが、市中には「院の前で下馬せよというなら、将軍に出会ったら地面にはいつくばらねばならぬのか」とあざわらう声が聞こえたという。頼遠は「婆娑羅大名」の一例。市中の冷笑は、権威を否定する婆娑羅の精神である。そしてこの時代ほど、皇族とその生命が軽視されたことはなかった。楠木正成は違った。冒頭は後醍醐天皇との最後の拝謁(はいえつ)のあと、彼がもらした言葉だ。帝は、自分の体面を重んじるがゆえに正成の謀(はからいごと)を斥(しりぞ)ける。それでも、正成は静に死地に赴く。  2010年2月11日 産経新聞より
兄弟が魚と水を思わせる。それが治国の計でございましょう。
[東大寺院主・聖弘]
源義経殿をお呼び戻しなされ。兄弟が魚と水を思わせる。それが治国の計でございましょう。
儒教仕立ての武士道徳・武士道には、主君のためには場合によっては父母兄弟友人を殺すことも、避けてはならないとする非人間的なものがあり、それが数々の武士道の悲劇を生んでいる。
海音寺潮五郎の「天と地と」の一節だ。ここで海音寺は江戸期の武士道を述べているのだが、「非人間的なもの」は鎌倉・室町期にもあった。武家の棟梁、源頼朝から「義経を暗殺せよ」と命じられた土佐坊昌俊は次の結論に至る。「親の首を斬るも君の命なり」凛として、「道」を示すものもいた。たとえば絶世の白拍子、。囚われの身ながら、頼朝の面前で、「吉野山 峰の白雪踏み分けて 入にし人(義経)の跡ぞ恋しき」と歌う姿は、さまざまなかたちで後世に語り継がれている。そして冒頭の仏僧、聖弘。義経に心を寄せ、その安全を祈祷するなど何事かと追及する頼朝に、聖弘は義経の功を改めて説明し、冒頭のことばを継いだ。気概を見込んだ頼朝は、聖弘を亡父追善のために建設した勝長寿院(しょうちょうじゅいん)の総裁職に起用する。それでも、聖弘が媚びることはなかった。「義経殿と御仲直りなされ」。そう、頼朝に訴え続けたという。 2010年2月5日 産経新聞より
千僧供養 
少し前に「千の風になって」という歌がヒットしましたが、千の風とは微風やそよ風のように色々な種類の風、森羅万象その時々に吹く風と言う意味でしょうか。千とは、無数や無量を象徴します。慣用表現では、途方もなく多いという意味があるようです。千手観音、千羽鶴、千人針、千人力、千日参り、海千山千、千変万化、千載一遇、千差万別などに使われています。普通、ご真言やご宝号など三返、七返または二十一返お唱えしますが、密教修法の際ご本尊様のご真言は大抵千返念珠を繰ってお唱えします。また千巻心経と言って危篤状態のお方の為に、十人×百返、二十人×五十返なり合計千返の般若心経をお唱えして祈願する法要もあります。それ程千という数は、不思議な成就数のように思えます。かって聖武天皇は、人々の幸福と安寧のみならず動植物の共存共栄を願われ、大仏造像を発意され東大寺大仏殿に千僧万僧そ招請して開眼供養会を催されました。またその故事を思い起こし昭和63年には、宗派を越えた青年僧侶千六百人が東大寺に集い花まつり千僧法要が厳修されました。そして二十年後の平成二十一年十一月十七日に、全日本仏教青年会創立30周年を記念して東大寺に国内外超宗派の僧侶千人以上が集い世界平和と子供たちの安全育成を祈り千僧法要と大護摩供えが厳修されました。世界平和祈願成就の護摩木を勧進し、多くの皆様と一緒に世界平和を祈りました。[寺報・2009年9月便りより]
大安吉日
新しい暦が届けられ、手にしてまず知りたいことは何でしょうか。大切な予定が入っている日が何曜日でその日の吉凶はどうだろうか、と暦を開くのではないでしょうか。日の吉凶といえば六曜がおおかた利用されています。先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口の六つですね。その起源については中国に古くからあった六行説から来ているそうですが諸説あって定かではないそうです。わが国では六曜の記載は江戸時代の終わり頃といわれその根拠がはっきりしないまま今に至るまで人気が続いています。六曜の配列はどのようになっているかご存知でしょうか。
まず、旧暦の暦の一月から十二月までの朔日(旧暦各月の一日)に前述した先勝・友引・先負・・・の順に六曜を振り分けていきます。つまり、一月一日と七月一日は先勝、二月一日と八月一日は友引・・・という具合になります。閏月は繰り返します。そうして、各月の二日以降はその月の一日の六曜から順を追って割り当てます。たとえば三月でしたら一日は先負ですから二日は仏滅三日は大安四日は赤口五日は先勝・・・という順になります。六曜をこのように確定したのは種々の暦を統一するためのことで、深い考えに基づいたものではないそうです。
仏教語の大安は「つつしみ深く落ちついていること」であって六曜等吉凶に左右されない姿勢こそが大安吉日「幸運吉日」につながるのではないでしょうか。[寺報・2009年11月便りより]
精神一到何事か成らざらん
その昔、漢の将軍”李公”は、弓の名人でした。ある日、狩に出かけた時のことです。獲物を求めて山の中を歩いていると、草むらからこちらを窺っている虎を見つけました。
あまりにも突然のことで驚愕し、とっさに弓に矢をつがえ、満身の力を込めて弓を引き絞りました。もし仕損じれば、自分の命はありません。渾身の力で放った矢は、見事虎を射止めました。
しかし、自分を襲おうとした虎はどうなったかと思い近づいてみると、それは虎ではなく、大きな石でした。
しかも驚く事に、矢が石に深く食い込み、突き立っていました。李公は不思議に思い、その場から石を目掛けて矢を射て見ましたが、再び矢が石に立つ事はありませんでした。
これが、「一念、石をも徹す」の故事です。私たちは、繰り返しの毎日に慣れ、一生懸命努力をすることを忘れがちです。
挑戦する事も無く、「以前も出来なかったから、今も出来ないだろう」と簡単に諦めてしまいます。
しかし、過去の結果にとらわれず向上心をもって努力を続けていると、本当に困った時、仏様が不思議な力を与えてくださるのではないでしょうか。
落ち葉
雨月物語の青頭巾の巻に「江月照松風吹 永夜清宵何所為」という経典の文があります。江上の月が水面を照らし、松風がさわやかに吹いている。秋の夜の清らかさは何のために、また誰のためにあるのだろうと問いながら、あるがままの美しさを読んでいます。
小学四年生の「落ち葉」と言う詩
「芝生の上に/パサリパサリ/茶色の葡萄の葉が/さびしそうに落ちてくる/まだ枝についていたのかな/枝の方を見ながら/落ちてくる/かわいそうだ/でもしかたないや/みんなそうなんだから/わたしはお話ができるように/葉を固めてやった」
落ちる葉と人生の無常が重ねられていて「でもしかたないや、みんなそうなんだから」自然の摂理の表現にはっとします。「お話ができるように葉を固めてやった」やさしさ(慈悲)が、泉のようにあふれ出ています。ふとした機会や縁によって生じるやさしさ(悟り)を「縁覚」といいます。