[全画面表示(F11)]   ◇蓑虫庵/俳聖殿(三重)

 古里や臍のをに泣くとしのくれ  冬籠りまたよりそはん此のはしら  家はみな杖にしら髪の墓参り

芭蕉翁生家/愛染院 故郷塚(三重・上野)

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俳聖・松尾芭蕉の生家を見学 ◇三十七歳の時「桃青門弟独吟20歌仙」を刊行、俳諧に於ける地位を確立。遂に蕉風俳諧の祖と仰がれる新規の俳風をうちたてたが、元禄七(1694)年十月十二日五十一歳の時、旅先の大坂でその生涯を閉じた    
松尾家 伊賀市上野赤坂町 母屋居間 芭蕉翁は年間を通して殆んど旅に出ていた。母屋の居間には年間何日ほど居たのだろう 松尾家全景 明治十八(1885)年松尾惣内の時の屋敷は、宅地面積八十六坪四勺であった
無名庵 芭蕉翁直筆である。八月十五日夜月見の献立と呼んでいる 無名庵 芭蕉翁の書をもとに月見の宴の献立を忠実に再現した
無名庵 無名庵の跡地に建つ碑「冬籠りまたよりそわん此のはしら」 無名庵 無名庵由緒
釣月軒 松尾家裏庭からの撮影。奥が本家で手前が釣月軒。帰郷の際はここで寝起きをした
釣月軒 釣月軒玄関
生家の裏にある釣月軒は、芭蕉翁が処女句集「貝おほひ」を執筆した所で伊賀への帰郷の折には、この建物で起居した。芭蕉翁は正保元(寛永21)年現伊賀市で生まれた。幼少より藤堂藩伊賀の侍大将藤堂新七郎家に仕えて当主良忠(号蝉吟)とともに俳諧を学んだが蝉吟の没後奉公を辞めた。その後江戸に出て俳諧師となる。37歳の時「桃青門弟独吟20歌仙」を刊行、俳諧に於ける地位を確立。
釣月軒 釣月軒由緒
芭蕉生家 この辺りに無名庵があった 芭蕉生家 母屋の縁側。お天気の良い日などは、この縁側でうつらうつらと
藁打ち槌 地方に行くとまだこのような槌で藁を叩いている柔らかくし、藁縄を編んだりする 再現レプリカ 芭蕉翁が「よくいらっしゃいました」と言ってくれそうな 台所 昔のへっついは大概がこの様な形であった。薪をくべて飯を炊いたり・・・
芭蕉生家 書庫 芭蕉生家 納戸 芭蕉生家 雪隠、風呂場 芭蕉生家 お櫃、藁を器用に編みお櫃を包み保温していた
芭蕉翁生家 松尾芭蕉翁が生まれ育った屋敷内部。現存する建物はその後改変を余儀なくされ、明治十八(1885)年松尾惣内の時の屋敷は、宅地面積八十六坪四勺であった。昭和の初めまではこの様な土間風景が田舎では見られた
草鞋 当時の生活が伺い知れる
保存食品 壺類が沢山ある。保存食品が大切にされていたのであろう
暮らしぶり 藤堂藩に仕えていて、生活ぶりは普通の暮らしだった様だ
・愛染院 真言宗豊山派。平安末から鎌倉時代にかけての文治建久年間(1190年頃)に醍醐寺の憲深僧正がこの地で後鳥羽天皇の病気平癒を祈願。
・故郷塚 芭蕉翁は元禄七年十月十二日(1694)大阪の南御堂花屋で没。遺骸は遺言により大津市膳所の義仲寺に葬られる。訃報を受けて門弟の服部土芳、貝増卓袋は遺髪を奉じて帰り、松尾家の菩提所愛染院の藪かげに埋め、標の碑を建て故郷塚と称えた    
故郷塚 故郷塚
故郷塚 愛染院の由来
故郷塚 柴門
故郷塚 故郷塚へ
故郷塚 愛染院全景 故郷塚 愛染院故郷塚由来 故郷塚 芭蕉翁故郷塚碑
故郷塚 「数ならぬ身となおもひそ玉祭り」 故郷塚 尼寿貞が、旅の留守中に没したという訃報に接した 故郷塚 「白菊に紅さしてくるはつしぐれ」
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