叡山電車、一乗寺で降り金福寺、詩仙堂へ。圓光寺を鑑賞し曼殊院から修学院に ◇永観堂の紅葉 ◇銀閣寺
◇奥嵯峨(京都) ◇瑞巌山圓光寺

京都の秋 金福寺芭蕉庵 詩仙堂丈山寺

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2013/11/17 金福寺芭蕉庵 元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ〜〜  詩仙堂
金福寺本堂
金福寺本堂
金福寺由緒
芭蕉庵
芭蕉庵庭園
芭蕉庵
蕪村筆洛東芭蕉庵再興記
蕪村筆洛東芭蕉庵再興記
この俳文は与謝蕪村一門が、芭蕉庵を再興した時蕪村が書き残したもので、芭蕉の「幻住庵記」に匹敵する名分と言われ、当寺に伝わっている。 俳文学の教材にも用いられる
本堂境内
芭蕉庵
芭蕉庵
蕪村""
花守は野守に劣るけふの月 西と見て日は入りにけり 春の海 蕪村
芭蕉庵
蕪村
与謝蕪村 享保元年(一七一六)〜天明三年(一七八三)
蕪村が再興した芭蕉庵 芭蕉庵の由来 「耳目肺腸 ここに玉巻く芭蕉庵」 蕪村
芭蕉庵
元禄の昔、芭蕉は山城(京都)の東西を吟行したころ、当時の草庵で閑居していた住職鉄舟和尚を訪れ、風雅の道について語り合い親交を深めた。 その後、和尚はそれまで無名であった庵を「芭蕉庵」と名づけ、焦翁の高風をいつまでも偲んでおられた。その後、八十五年ほどして、与謝蕪村が当寺を訪ねて来た。そのころ既に庵は荒廃していたが、近くの村人たちは、ここを「芭蕉庵」と呼びならわしていた。芭蕉を敬慕していた蕪村は、その荒廃を大変惜しみ、安永五年、庵を再興し、天明元年、俳文「洛東芭蕉庵再興記」をしたため、当寺に納めた。そして庵が落成した時上の句を詠んだ。
芭蕉庵
芭蕉庵
芭蕉庵庭園
芭蕉庵庭園
当寺に寺にての句
憂き我を さびしがらせよ 閑古鳥 (芭蕉) 耳目肺腸 ここに玉巻く 芭蕉庵 (蕪村) 我も死して 碑に辺せむ 枯尾花 (蕪村)
徂く春や 京を一目の 墓どころ (虚子)
芭蕉庵
2013/11/17 詩仙堂丈山寺 でこぼこの土地を活かした庭園には白砂が敷かれ、紅葉のコントラスが〜 
詩仙堂丈山寺
詩仙堂
現在詩仙堂と呼ばれているのは、正しくは凹凸カ(おうとつか)であり、詩仙堂はその一室である。凹凸カとは、でこぼこした土地に建てた住居という意である。詩仙堂の名の由来は、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、図上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としているところからよばれる。丈山がこの堂に掲げるべき三十六人詩人とその詩を選定したのは、寛永十八年、五十九歳の時であった。これは我が国の三十六歌仙に習ったもので、その選定には林羅山の意見も求め、左右十八人、それぞれの組み合わせに意味をもたせた。
詩仙堂
詩仙堂
詩仙堂
詩仙堂
詩仙堂
詩仙堂
詩仙堂
詩仙堂
石川丈山
石川丈山は、天正十一年(一五八三)三河国(現在の愛知県安城市)に生まれた。石川家は父祖代々徳川譜代の臣であり丈山も十六歳で家康公に仕え、近侍となった。 松平正綱、本田忠勝等はその親族である。三十三歳の時、大坂夏の陣では勇躍先登の功名を立てたが、この役を最後として徳川家を離れた。
詩仙堂
詩仙堂
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