教育・修身・道徳・神話

 

◇出雲神話の世界◇


出雲大社内の大国主神銅像
大国主神
写真wikipediaより
出雲大社、縁結びの神といわれる由縁 《大国主神の神話》
誰もが知っている「因幡の白兎」の神話は、実は求婚の物語で、大国主神の兄弟は挙(こぞ)ってヤガミヒメという美女を求めて旅に出たのだった。その途中、大国主神の兄たちは皮を剥がれて苦しんでいる白兎に、海水を浴びて風に吹かれていればすぐに治ると、いい加減な治療法を教える。白兎が兄たちに教わった通りにしていると、症状はみるみる悪化していった。そこに、遅れて通り掛かった大国主神は真水で洗い流して、蒲の穂綿に包まるようにと、本当の治療法を教え、白兎はみるみる回復する。そして、白兎はヤガミヒメと結婚するのはあなたのような気の優しくて、真実を語る方ですと予言する。その予言どおり、大国主神が兄たちを退けて、意中の人と結ばれる。このような神話に基づいて、古くから出雲大社は縁結びの神として信仰されているのである。

旧暦10月(現在では新暦の10月)の異称を一般には神無月というが、出雲では「神在月」と称している。10月には全国津々浦々の神々が出雲に集結して縁結びの相談をすると言われているのである。だから、出雲には全ての神々が集まるので「神在月」というのだ。出雲では10月10日の夜、全国から集まった神々を迎える「神迎神事」が行われるほか、神々が縁結びの相談をするという「神在祭」、神々を郷里に送り出す「紳等去出祭」などの一連の神事が行われる。また、出雲大社の神殿の外側の東西には西十九社、東十九社と呼ばれる小さな社が連棟で並ぶ。これらの社は各地から参集する神々の宿舎となる。

(PHP2011年10月号 瓜生 中より) ◇探し物雑学◇
 

◇親子、師弟の秩序と慎み◇


復刻 国定修身教科書
戦前の夏休み
《尋常小学修身書 巻一 戦前の子供の夏休み》
昭和10年文部省著作になる「尋常小学修身書 巻一」の教師用にある文書を引いてみよう。
次郎たちは夏休み中の心得を先生から聞き、次のように続く。《次郎は家に帰っておとうさん・おかあさんに先生のお話を一々話しました。さうして先生のおっしゃった通りにしようと思ひました。一学期のおけいこがすんでいよいよ夏休みが始まりました。次郎は毎朝必ず早起きして、涼しいうちに読本を読んだり、算術をしたりしました。時々絵などもかきました。又お庭を掃除したり、お使いに行ったりなどして、よくうちの御用を手伝ひました。次郎の家の近くに大きな川が流れてゐます。水が澄んできれいなので、晴れた日には大勢の子供が泳ぎにいきます。次郎も時々おかあさんにうかがっては、にいさんに連れられて行ってもらひます。にさんも次郎も真黒に日にやけました。

次郎は水にはいって元気よく遊びましたが、決して深い処や流れの速い処には行かないで、浅い川岸の方で遊んでゐました。或る日、前夜からの大雨がからりと晴れて暑さがなかなかきびしい日がありました。次郎はその日もにいさんに泳ぎに連れて行ってもらはうとしました。しかしおかあさんが、「けふはゆふべの雨で水がふえてゐて、あぶないから、やめたほうがよい」とおっしゃいましたので、行くのをやめました。ところがその日のこと、近所の子供が一人流されたさうです。次郎はおかあさんのいふことをきいてほんたうによかったとおもひました。

(後略)》ここには「次郎が先生の教えを守って勉強やお手伝いをした話」「元気よく遊び、危ない所ひは行かなかった話」などが書かれている。昔の子供は、このようにして親や教師の言いつけを素直に聞き、守るように努めていた。親子や師弟の間にきちんとした秩序があり、慎みが保たれ、それを良とする社会の風土があった。その回復が急務だ。
(植草学園大学教授 野口芳宏 2011年8月27日産経) ◇探し物雑学◇
 

◇吉田松陰「松下村塾での教育」◇


戦前の修身教科書
吉田松陰
《貫いた「共に学び共に育つ」》
吉田松陰(1830〜59年)の名を不滅にしたものの一つは、松下村塾での教育であった。松蔭が関わった僅か3年足らずの小さな私塾から、幕末維新の変革を担う人材がまさに綺羅星のごとく輩出したことは「奇跡」という他はない。

「わずかに十八でふ(畳)の古い家の塾であつた。しかし、このせまい塾に集まつた青少年の中から、久坂玄瑞、高杉晋作を始めとして、明治維新のをり、身を以て国事につくした大人物がたくさん出た。・・・・松蔭の塾を松下村塾と呼んだ。ここでは、武士の子も、農家の子も、へだてはなかつた。また松蔭は、決して先生だといふ高慢な態度をとらなかつた。先生と塾生の膝と膝とが、くつついてゐる。礼儀は正しいが、へだてはなかつた」。

修身教科書は、松下村塾の教育の特徴を的確に描写している。教育者としての使命感に?れ、日夜、塾生の教導に尽力した・・・ というのは、松蔭の心情からすれば誤りである。孟子の「人の患いは、好んで人の師になるに在り」評して、「学を為すの要は己が為にするにあり」「己が為にするの学は、人の師となるを好むに非ずして自から人の師となるべし」と松蔭はいう。「共に学び共に育つ」者として絶えず努力を続けていく。その生き方が松蔭を教育者とした。徹底した平等主義と一人一人を生かす教育・・。松下村塾の教育には、すべての人間の本性が善であると信じて疑わず、どのような人間にも可能性があることを信じ続ける松蔭の生き様が貫かれていた。1858(安政5)年6月の日米修好通商条約を機に松蔭の言動は過激さを増していく。自重を促す久坂、高杉に松蔭は「僕は忠義をする積もり、諸友は功業をなす積もり」といって取り合わず、翌年、江戸伝馬町の獄舎で露と消えた。「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置きまし大和魂」の辞世で書き出された遺書「留魂録」に接した塾生たちは、師の遺志を継いで敢然と動き出す。志あるものとして、自己の可能性を信じ求めるという松蔭が身を以って示した教えを塾生たちは忠実に受け止めたのである。そんな彼らの強い絆と結束は、しばしば「松下村塾党」と称せられた。なお、修身教科書は、松蔭の父母の人となりについても伝えている。この親にしてこの子あり。偉人の陰には、優れた父母の教えがあったのである。(武蔵野大学教授 貝塚茂樹 2011年5月21日産経)
◇探し物雑学◇
 

◇小野道風「ヤナギニ 蛙」◇


《倦まず、弛まず、根気よく》
昔、ヲノノタウフトイフ 人ガ アリマシタ。小サイ 時カラ ジノケイコヲシテ ヰマシタガ、思フヤウニ ウマク カケナイノデ、ヤメテシマハウカト 思ヒマシタ。
アル 雨ノ 日ニ タウフウガ、庭ニ オリテ 池ノ ソバヲ 見ルト、一ピキノ 蛙ガ、シダレヤナギノ 枝ニ、トビツカウトシテ ヰマシタ。トンデハ 落チ、トンデハ 落チ、何ベンモ クリカエシテ ヰマス。
トウトウ ヤナギノ 枝ニ トビツキマシタ。タウフウハ コレヲ 見テ、コンキヨクスレバ、何ゴトモ デキナイ コトハナイト 氣ガ ツキマシタ。 ズンズン ウマク ナッテ、ナダカイ カキテト ナリマシタ。

この年、従来の小学校は新たに国民学校と改称され、教科書も全面的に改められた。この教材は『ヨイ コドモ』の下巻にある。従来の修身の教科書が新しい呼称となったもので、2年生が使用した。国民学校はナチス・ドイツのフォルクスシューレにならって名付けられ、「皇国ノ道ニ則リテ普通初等教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的として発足した。小野道風は、平安中期の書家で若くして秀れ、和様書風の基礎を築き、藤原佐理(すけまさ)、行成(ゆきなり)と並んで三蹟と称されている。その能書家の若き日の逸話として、戦前の人々には広く知られていた一遍である。極めて簡潔な文章で、言わんとすることは明白だ。倦(う)まず弛(たゆ)まず、根気強く努力することの重要性を説いている。2年生でもほとんど全文暗誦ができるくらいに短く、しかも声に出して読むと心地よいリズム感にも浸かれる。当時は良文を朗々と声に出して読ませ、心を育てるという単純明快な教育法であった。
(植草学園大学教授 野口芳宏先生 先生もこれを習ったのだが、定価は「金拾六銭」であったと書かれている。)産経新聞より

(以上、昭和16年2月 文部省発行)


◇探し物雑学◇
 

◇伊能忠敬 「大日本沿海輿地全図」◇


《愚直に信念を貫いた生き様》
嘉永6(1853)年、日本に開港を迫ったペリー提督は、日本の地図を持参していた。江戸湾沿岸を測量したペリーは、その地図の正確さに驚いたといわれる。その地図こそ伊能忠敬(1745〜1818年)が作成した「大日本沿海輿地全図」である。忠敬は、上総国(現在の千葉県)の名主の家に生まれた。幼名は三次郎。17歳の時に佐原村の名門・伊能家に婿入りする。36歳の時に佐原村の名主になり、天明の飢饉の際には、関西から米を買い入れ人々の窮乏を救う一方、「永久相続金」という非常用積立金制度をを創設した。そのため、全国を襲った2度目の天明大飢饉(1786年)の時にも、佐原村だけは一人の餓死者も出なかった。
この事績を第2期国定修身教科書は、「関東に二回の飢饉ありし際、毎回多くの金穀を出して窮民を救ひ官より厚く賞せられたり。精神一到何事カ成ラザラン」と記している。

忠敬の人生の真骨頂は、長男に家督を譲り江戸に出た50歳から始まる。19歳も年下の暦学者(天文学者)である高橋至時(よしとき)(東岡)に師事した忠敬は、天体観測と測量技術に関する猛烈な勉強を開始。東岡の推挙で幕府から蝦夷地(北海道)測量の命を受けた55歳の忠敬は、門人と共に蝦夷地に赴き、僅か半年で精密な蝦夷の地図を完成させた。その後も、幕府から日本各地の測量を命じられた忠敬が、実に18年の歳月を費やして形としたのが先の「大日本沿海輿地全図」であった。この間忠敬が測量に歩いた総距離は約4万キロ。地球一周分に相当する長さは歩数にして約4千万歩と換算される。

修身教科書は、この忠敬の偉大な事績と共に、高橋東岡との師弟関係にも項目を設けている。「忠敬は七十四歳にて病を以って江戸に歿せり。忠敬の師高橋東岡は忠敬に先だちて早世せしが、忠敬歿するにのぞみ、家族に命じて『我の今日あるは一に東岡先生の教えに由れり。先生の大恩今に至るまで忘るる能はず。我死なば必ず遺骸を先生の墓の側に埋めよ』といへり。よりて家族は其の遺命を奉じ浅草の源空寺なる東岡の側に葬りたり」。この簡明な文書は、忠敬の激烈で愚直なまでに信念を貫いた生き様を清々しい余韻の中に伝えている。
(武蔵野大学教授 貝塚茂樹先生)産経新聞より
◇探し物雑学◇