健康が一番・そのT  
・鬱病・ ・突発性難聴・ ・WPW症候群・ ・パニック障害・
健康が一番・そのU (咳喘息/腰部脊柱管狭窄/本態性振戦/鼓膜再生/人工内耳) 健康が一番・そのV (遺伝性難聴/加齢黄斑変性/精神生理性不眠症/角膜感染症/網膜色素変性症/難病バージャー病/老化と共に現れる睡眠不良/認知症・高血圧にカカオポリフェノール)/ アタマジラミ新しい/ 雑学一番・そのW「健康」

私の手記
昭和58年、陽だまりの恋しい4月下旬の寒い日であった。
ある日、突然その病は、私の心を支配した。 なんとも言えぬ焦燥感、虚しさ、憂鬱感、気だるさ・・・
その日を境に苦悩の日々が始まった。そして苦悩を乗り越えて。だが平成20年2月再び苦悩の日々がそして再び乗越えて。  

※血液から鬱病診断・初の「指標」発見※ 更新
鬱病の症状を客観的に診断するための指標となりうる物質を、広島大大学院(広島市)などの共同研究グループが世界で初めて発見したと発表した。成果は米科学誌、プロスワン電子版に掲載された。鬱病はこれまで、医師が患者の症状をもとに主観的に診断する方法が主流だが、今回の発見では、血液を調べることで客観的な診断方法の開発に役立つと期待される。
発見した研究グループの山脇成人教授によると、鬱病の要因は世界で研究されているが、糖尿病診断での血糖値のような客観的な指標は発見されておらず、気持ちの落ち込みや意欲の低下などの症状から、医師が判断するしかなかったという。
山脇教授らは脳内に多く存在するタンパク質である「脳由来神経栄養因子(BDNF)」をつくる遺伝子に着目。未治療の鬱病患者20人と鬱病でない18人の血液を採取して解析したところ、この遺伝子の中で起きる「メチル化」と呼ばれる科学反応をみると、鬱病患者にだけ特有のパターンが見つかった。過度のストレスが異常なメチル化を引き起こした可能性があるとみられる。
BDNFは神経細胞の成長に不可欠な栄養素の物質で、これまでも動物実験などで鬱病と深い関係があることを示す研究データはあったが、BDNFの血液中の濃度に関する研究では関連が証明されていなかった。今回の手法が実用化できれば、費用は1万5千円程度で、2日間で結果が出るという。山脇教授らは「さらにデータを集め、抗欝薬の投与や病状の変化と、メチル化の程度の変化の関連性などを調べて、鬱病の客観的な診断方法を確立したい」としている。
2011年8月31日産経新聞掲載

突発性難聴 画像クリック
※突発性難聴の治療に朗報※
内耳細胞再生へ京大教授ら臨床試験
!!2008年2月21日産経新聞夕刊掲載
突発性難聴の治療に新手法!!突然耳が聞こえなくなる「突発性難聴」の患者の耳にゼラチン状の 薬剤を入れて内耳細胞の再生を促し、聴覚の回復を図る世界初の臨床試験を、京都大の伊藤寿一教授らが 始めた。ステロイド剤の投与による治療と異なり、副作用がないのが利点だという。原因不明の突発性難聴 に苦しむ患者は国内に約3万5000人おり、歌手の浜崎あゆみさんも突然左耳が聞こえなくなり注目された。 ステロイド剤投与で治る場合もあるが、効果がない患者も多い。伊藤教授らは、細胞の成長を促す作用がある 薬剤に着目。これをゼラチンに含ませ、中耳と内耳を隔てる薄い膜に張り付ける。音を電気信号に変える細胞が 集まる内耳器官「蝸牛」に、約2週間かけて薬をしみ込ませ、弱った細胞を再生する。 臨床試験の対象はステロイド剤が効かない人。2月初旬、最初の患者の鼓膜を切開し、薬剤を内視鏡で耳の中に 入れた。今後20人程度の患者に試み、うまく聴覚が回復するか確かめる。 伊藤教授は「ステロイド治療と異なり、副作用の心配がない。耳鳴りや目まいなど、内耳にかかわるといわれる 症状にも応用できそうだ」と話している。(原文)
この新手法が成功すれば、私の聞こえなくなった右耳も再び音を聞くことが出来るのだが。切に期待する。

パニック障害発症の前兆、そして7ヵ月後完治へ

ある日を境に眠れなくなった。2008年2月も終わりの頃であった。
眠れなくなったきっかけは、夜更かしをしてのパソコンが原因だったと思う。その頃はホームページの更新に毎夜没頭していた。パソコンのキーボードを居眠りをしながら打っていた。そして2月のある日、眠たいのに無理をしてホームページの更新を終わらせた。床に就いたのが夜中の1時半頃だったか。
いつもだったらそのまま眠りについたのだが。だがその日はいつものように床に就いたのだが何故か様子が違う。眠りに就くどころか目が冴えてきたのだ。結局明方になっても一睡もできずじまいだった。
その日はあまり気にも留めず仕事にでた。そして夕方になるといつものパターンでパソコンを。そして夜半に床に入る。だが昨夜同様まったく眠りにつけない。そして朝が来た。二日連続で一睡もできなかった訳だ。
二日間眠れなかっただけで、夜の眠りを意識するようになった。精神的な不眠症に陥り始めていたのだ。
そして年老いた(当時93歳)母親の病的な我侭との付き合いも続いた。精神的な疲れが蓄積へ・・・
睡眠できなくなってから4日めだったと思うが、とうとう掛かり付けの医者に眠れないことを訴えた。そして精神安定剤の「デパス」という薬が処方された。眠りを期待して「デパス」をのんで床に就いた。だが矢張り眠れない。
「デパス」を2週間ぐらい続けたがまったく眠れる気配はない。その頃になると体に色々の症状が出始めた。一番厭な感じなのが不安に駆られることだ。そして頭頂部にピリピリ感が出始めた。頭の皮膚がピリピリと痛い。同時に足先の灼熱間が出始めた。足先の灼熱間は夜中まで続いた。唾液が出にくくなり食事も味気ない。
そして再度掛かりつけの医者に相談した。「マイスリー」という睡眠導入剤が処方された。「デパス」と併用して服用した。マイスリーを服用し始めてからは、若干ではあるが浅い眠りにつけた。だが早朝2時〜3時には目が覚める。
不安と焦燥感が常に心を支配しだした。そして約3ヵ月後再度医者に問う。
医者は背中を私の方に向け考え込んでしまった。その姿を見て私は深い不安感に陥った。医者は意を決したように「ルボックス」という抗鬱剤を出した。是を期に「マイスリー」と「ルボックス」の服用が始った。しかし夜の眠りは浅く早朝覚醒、頭の皮膚はピリピリと痛い、足の灼熱間は相変わらずだ。考えてはいけないことをも考えるようになった。仕事はただ出勤して時間を無意味に過ごすことが続く。そして作業中も常に焦燥感に襲われた。
私には当時93歳の母親がいる。現在96歳になるが、そんな体の不調の中母親の介護は毎日続く。病的な母親の我侭で常に衝突した。そして耐えに耐える生活が続く。
8月に入りお盆休みが訪れた。そのお盆休みを利用して子供達そして孫達と2泊3日の海水浴を計画していた。母親には言い含めてショートステーをを段取していた。だが出発の当日夜中の1時ぐらいだったか。母親がショートステーに行かないと言い出した。言い出したら梃子でも動かない。結局私だけ旅行を断念した。その時私のパニック症状が一度に噴出したようだ。そうなれば母親の面倒どころではない。私はぐったりした体を床に投げ出した。
今まで診てもらっていた掛かりつけの医者は病状を言ってくれなかった。診てもらう医者を替えてみようと考えた。
お盆休みが終わり出勤する朝が来た。私は出勤日の当日の朝、会社に病欠の届けを出した。病欠を出した当日自宅の近くにある心療内科を受診した。受診の結果私の症状は「パニック障害」と診断された。パニック障害治療薬「パキシル」が処方された。と同時に睡眠薬も「ドラール」に変わった。この二つの薬が私の症状を激的に改善させてくれた。
一週間ほどしてから症状がどんどん改善されていく。夜も僅かながらでも眠れるようになった。焦燥感も嘘のように薄らいでいく。「パキシル」と「ドラール」が私の体を救ってくれたのだ。
やがて9月も半ばになり私もすっかり生気を取り戻した。そしてあれから3年の歳月が流れた。今ではすっかり元の自分を取り戻した。相変わらず年老いた母親の世話は続く。心が萎えることもあるが、割り切って母親の世話に明け暮れる。
心療内科を受診した際、私は医者に仕事の継続の有無を相談した。その医者はきっぱりと「仕事を辞めたら駄目です。」と言ってくれた。
家内にも弟にも仕事のことを相談した。「辞めるのはいつでも辞められる。もう少し続けたら。」の答えが返って来た。その二つの返事を私は素直に受けた。心が軽くなったのは確かだ。
治る当てのない治療を続けていてもしょうがない。医者を替えてみることも、病気を治すには大事なポイントだ。
精神の病気は自分自身の心の持ちようが大事だ。精神の病気に罹らない物の考え方が大切だと、何かで聞いた。
精神の病気で悩む方々は非常に多い。だがこの様な心の病を治す方法も日毎に進んでいる。そしてこの様な病を恥じることはない。心が変だなと思ったら、家族、会社の同僚、先輩、上司そして心療内科などに相談することが何よりも大切だ。相談を受けた人は明るく見守ってやる心構えが必要だ。「色鉛筆・パニック障害と闘う」
54年2月頃(突発性難聴の発症)
その当時、自動車関連の部品を製造販売している 会社に勤めていた。 工場の一角で、自動車のオプション部品の排気マニフォルドという部品を を作っている最中の事であった。 突然右耳の穴が、何かに塞がれたように突然に聞こえなくなっていった。 何でだ。耳の穴に指を入れて、何かを掻きだすように必死で穿った。 しかし、何も出てくる筈はない。頭の芯がツーンと詰まったようになる。 上司に事情を話し、近くの耳鼻咽喉科に駆け込んだ。先生が病名を説明して くれた。「突発性難聴です。」「紹介状を書きますから直ぐ行きなさい。」 行き先は大阪国立病院である。診察の結果、即刻の入院が必要とのことだった。 入院の用意をする為に一度家に帰る。妻に入院をすると告げると突然の事なので びっくりしていた。説明もそこそこに病院にとってかえす。入院と同時に早速、点滴が 始まった。処置が早かったので順調に回復した。2週間程度の入院であった。入院当時は不安であったが、毎日の点滴と共に耳が聴こえる様になってきた。そして退院。担当医は「この病気 は2度と再発しませんから安心しなさい。」と言い切っていたのだが。
しかし(2度目の突発性難聴の発症)
再発したのである。57年やはり2月頃であった。当日近所の仲間たちと、 あるスナックへ遊びに行った。親睦が目的の為妻同伴である。カラオケをしている 最中の事であった。右耳に54年2月頃のいやな感じが突然現れたのだ。 耳栓を抜いたり入れたりするような感じが・・・・次の日は、日曜日。病院は休みだ。 日曜日の朝、右耳はまったく聴こえなくなっていた。 それでもタカをくくっていた。前のときは治ったのだから今度も治るさ。あまかった。 日曜日、病院の門を叩けばよかったのである。後の祭りであった。悔やんでも悔やみきれない。 点滴をしても以前の様な訳にはいかなかった。4日、5日、1週間まったく聴こえない。 日に日に不安と焦りがつのっていった。そして2週間。まったく一緒だ、聞こえない。 そして2週間を過ぎた頃、担当医に呼ばれた。これ以上治療しても無理です。 治る見込みはありません。惨めな宣告を受けた。 右耳の強度の難聴と強い耳鳴りが残った。退院後、ある人の紹介で、大阪市市大病院に通院する様になったのだが。
突発性難聴
原因・・
[ウィルス感染説]・風邪ウイルスが、内耳の細胞に感染するために起るされている。
[内耳循環障害説]・内耳の血管が詰まったり、痙攣を起こしたりすると、内耳の細胞が 栄養や酸素不足になる。脳より内耳への血管は一本しかない。血管が急激な変化(収縮) をすると、聴覚神経が死んだり、麻痺したりする。ストレスに左右される事が多いと 言われている。
症状・・
@急に耳が塞がったようになる。(真綿でも詰め込んだような感じ)
A周囲の音が、頭の中を駆け巡るような感じ(反響しているような感じ)
B自分の声が頭に響く
C目眩、吐き気、耳鳴りがある(このような症状がない人もあるという)
治療・・
とにかく早めに治療を開始する。点滴が主な治療方法。細胞が壊死する前に点滴をする。 細胞が壊死したら治りにくいか、又は治らない。時間が治療の成否を左右するのは 間違いない。
予後・・
完治率はあまり良くない。完全に治るが約40%、治らないが約30%、残りの30%は 治るが耳鳴りなどの副作用を残す。詳しい事は耳鼻科で確認をする方が安全だ。
仕事に復帰(右耳は不自由だが)
仕事に復帰時は左右のバランスが悪く、特に自動車の運転では危なっかしい日々が 続いた。右側を走っている車に気がつくのが、ぎりぎりまで判らない。サイドミラーは 神経質になるくらいよく見た。 緊急車両のサイレン等の音も、聞こえるのだが、何処で鳴っているのか近くにくるまで 判断がつかない。直ぐ真後ろに緊急車両がいた時などは誠に肝を冷やした。 その様な状況の中で「何とか治って欲しい」の気持は強く治療の為の病院通いは続いた。 しかし、原因が確実に判っているわけではなく、これといった治療方法がある訳でも なかった。今思えば気休めで病院通いをしていた様なものだ。
そしてこの病を境に 今まで想像した事のない、苦悶の日々が訪れようとは、微塵だに想像しなかった。 耳の治療をはじめてから1年と2ヶ月が過ぎた。昭和58年4月下旬の事だった。
焦燥感(2ヶ月経った)
空しさ、自分は駄目な人間なんだ。日に日にその思いが 強くなっていく。何をするにも気力が湧かない。考えるのも嫌。 人と逢うのも嫌。会話するのも嫌。食事も億劫だ。まったく味気ない。 日が経つにつれ、夜眠れなくなってきた。朝まで悶々と眠れない日が続いた。 夜中、眠れない苛立ちで髪の毛を掻き毟ったり、頭を両の拳で何度も叩いたり、 頭が割れたらそれでも良いとも思った。その反面で、「妻子を養わなければならない」との 思いも心の隅に、ずしんとのし掛かっていた。辛いが仕事は休まれない。 辛かった。会社では常にぼーっとしているし、仕事は捗らないし、私を見て 周りの者は「あいつはなんか変だ。」と思っていた事であろう。 ある日、女房の父親(他界した)が我が家に遊びにきた。夕食の時の事である。 私の身体はおかしかった。クニャクニャでじっと座っていられない。 食事の終わるのももどかしく、その場に寝転んでしまった。 義父は思った事であろう。なんと失礼な奴だと。でも私はどうしようもなかったのである。 そのうちに体が震え出した。女房や義父に知れないよう必死で堪えた。 その時の私の気持は、何とも言い表しようがない。このまま発狂するんじゃないかと思った。 「俺の心の中はどうなっているんだ。」
月日は過ぎていく(心の中は灰色)
治るあてなど無い事を承知しながら、耳の治療は続いている。只、虚ろな気持を紛らわす為、惰性だけで通院しているみたいなものだ。 虚しさ、虚脱感、脱力感、焦りと日を追うごとにひどく なっていくのが、心の中で益々強く感じるようになっていく。此の侭では私は廃人に なるかもしれない。不安が増幅されていく。何とかしなければ、しかし何ともならない。 疲れきった心、ぐたっとした身体で1年が過ぎた。
59年3月頃であった(或る日、意を決して)
耳鼻科の担当医は女の先生。ある診療日、私は意を決して 先生に今の心の内を訴えた。「先生、毎日が辛いんです。憂鬱なんです。」先生に 縋る思いで訴えた。先生は私の様子がおかしいのを感じられていた様だった。。 先生は即座に「おかしいなと思っていました。直ぐ神経内科に 紹介状を書きますので今から持っていきなさい。」と院内の神経内科に紹介状 を書いてくださった。今で思えば、これが千載一遇のチャンスだったのかも知れない。 あのまま、自分の於かれている現状も告げずだらだらとしていたら、今の私はあった だろうか。おそらく廃人のように成っていたかも知れない。このチャンスを逃さなかったのは 私にまだ「人、本来」への執念が残っていたのであろう。
神経内科担当医の所見では、鬱病であった。鬱病の治療が始まった。そして 1ヶ月か過ぎた。
1週間毎の治療である(眠れる喜び)
私と同じような症状の方が大勢治療にきている。 私は、今までの経過を包み隠さず先生に話した。先生はじっくり聞いて下さった。 週一回の先生の話と薬の治療が続いた。しかしなかなか結果が出ない。 相変わらず不眠が続く。 1ヶ月位経過したある週の治療日、私は先生に思い切って問い掛けた。 「先生、夜眠れません。」 先生は私の話を聞きながらカルテを見比べていた。そして「薬と薬の量を変えてみるか。」 その日から新しく処方された薬を飲み始めた。 薬が変わって2日目位の朝の事だった。夜眠れたような感じがするのだ。ボーットした 感覚の中で何かを追いかけている。暫くして(目覚めた感じ)「やった!」と叫んだ。 叫んだ様に思えた。 私には新に、処方された薬が劇的な効果を与えてくれたのだ。それまで苦しんでいたのが嘘のようだ。 そして夜僅かでも眠れるようになったのが、他の症状にも影響をするようになった。 あれ程までにあった虚しさ、憂鬱、無力感の色々の症状が徐々にではあるが、自分の 心の中から消えていくのがわかった。そしてその頃から顔に表情が出てきた事を自分でもはっきり自覚できる様になった。
あれほどまでに(溺れる者、藁をも掴む)
眠れなかったのが、眠れたのである。嬉しかった。
薬の治療以外にもある事をした。それは「溺れる者、藁をも掴む」の心境だ。 私の叔母が千葉県に住んでいる。私の父親の妹である。生長の家の 熱烈な信者である。61年お盆、叔母が宇治別格本山(宇治市にある生長の家の建物)に参拝にきた。 その際、父親の家に立ち寄ってくれた。そして我々家族皆に、常日頃何事にも 「ありがとうの気持を持って感謝しなさい。」と、諭された。今85歳ぐらいか。 その時「聖経」と言う教本をくれた。お寺さんで言う所の経本だ。 私は、信心にはまったくといっていい程無頓着な男だ。その男が「聖経」のなかのある行 に心が引かれたのだ。心を落ち着かせる為にむちゅうで読んだ。。 その行はこうだった。「神の力流れいる。我の心空しゅうして、神の御心に 従い奉る。神の御心を我にあらし召し賜え。有難う御座います。有難う御座います。」 間違っていたかも知れない。間違っていててもいい、私はそれを信じた。 何処にいる時でも、何をしている時でも、心が引きずり込まれそうになった時に 口の中で一生懸命唱えた。不思議なくらい心が落ち着いた。 その後一進一退の日を繰り返しながらも、少しずつ気分が落ち着いて いくのを感じた。
60年7月(勤めていた会社を退職した)
退職したその日に、現在勤務している、会社に知人の紹介で就職をした。 転職後も大阪市大病院神経内科への通院は続いた。62年夏頃神経内科の先生から、 「もう、大丈夫。」の言葉をもらった。その時担当医の先生から、こんな事を聞かされた。 「あせらず、むりせず、のんびりと、そしてすこしずぼらに。」どの言葉も私には新鮮で 心地よい響きとして聞こえた。そして何よりも、その言葉を実践する事が如何に精神 衛生にによいか身をもって体験した。 長かった。本当に長かった。是からは治療生活のなかで教えられた、「ずぼら」で 「のんびり行こう」を心に決めた。
今でこそ思うが(鬱病の原因)
心の病気に掛かった原因は自分の心に在ったと思う。 生真面目で、馬鹿正直で、小心者であった。そして融通性に欠けていた。 58年3月頃、当時勤めていた会社の放漫経営で、あちらこちらに綻びが見え始めた時の事である。当時私は、製造部の課長だった。ある加工メーカーに部品の加工を依頼していた。 或る日その加工メーカーより、部品の加工を断ってきたのである。突然のことだった。 会社の左前が伝わったらしい。早急に代わりの加工屋さんを探してくれ、との事である。 複雑で精度の高い加工をして貰っていたので、他に加工してくれる所が在るだろうか。 と、不安になった。その時心の隅に潜り込んだようである。病魔が。 その2〜3日後位より、自分でもわかる位人が変わってしまった。如何にも出来ない。 どうしようもない。もがく気力もなくなって行くのがわかった。 おまけに右耳も聴こえない。そして、其の頃先天性の心臓病の発作 も頻繁に現れだした。 もう家族を養っていけない。会社が潰れたら終わりだ。こんな男は何処も使って くれない。俺は駄目な男だ。そんな事ばかり考える様になった。
WPW症候群画像クリック
心臓疾患(WPW症候群)
「WPW症候群」聞きなれない病名だ。不整脈の一種。W、P、W三人の医師の頭文字を付けてこう呼んでいる。1930年にこの病気を三人の医師が報告した。私はこの病気を生まれながらに持っていたのであろう。 この病気は、突然、脈拍が一分間に200前後になり、発作が起きると苦しく、立って いられなくなる。患者数は推定で約1000人に2人。年齢には関係ない。 記憶では、私が最初に発作を起こしたのは25歳ぐらいの時だったと思う。 冬、場所は、スキー場。スキー場に到着した晩は皆で夜更かしをした。翌朝ゲレンデへ。 それまでは何の異常も無かった。1時間ぐらい経っただろう、その時初めての発作だったの だろう。突然目眩がして立っていられなくなった。雪の上に崩れるように倒れた。 気がついたら、スキー場の医務室だった。2時間ぐらい気を失っていたという。 気がついてからは胸が異常に痛かったのを、今でもはっきり覚えている。とうとうその日は スキーどころではなかった。
2回目に(突然襲ってきた)
発作が起きたのは、4年後の暑い日だった。女房の里での事だった。暑い最中、少年野球を見終わり、義兄の家で寝転んで涼んでいるときの事だった。 心臓が「コトン」と不規則な鼓動をした。それが引き金で急に脈拍が速くなりだした。 まるで馬の心臓並みだ。一分間にそれこそ200以上鼓動し始めた。その内治まるだろう と思っていたが、なかなか治まらない。義姉にお願いして近所の町医者に行った。 色々手を尽くしてくれたが、手におえないみたいだ。先生が直ぐ救急車を呼ぼう と言って救急車を呼んでくれた。救急車がきてストレッチャーに乗せられたとき発作は 心臓の「ドコン」とした感じで急に治まった。後で知ったがこの発作の特徴だ。急に始まり急に 治まる。
3回目の(発作の引き金)
発作は40歳頃現れた。その日は子供会のソフトボール大会があった。試合は順調に進んでいた。昼過ぎ突然夕立が襲った。 子供達もそして関係者も皆ずぶ濡れだ。私もずぶ濡れになった。2〜3日してから どうも体の様子がおかしい。そして不整脈が出始めた。しかしいつもの期外収縮だろうと 気にしなかった。しかしいつもと感じが違うぞと思った矢先の事だ。3回目の発作がとうとう 現れた。心臓の鼓動が1分間に200回以上打っている。対処のしようがない。 どうしようと思っている間にも時間はどんどん過ぎて行く。 その日の発作は3〜4時間してから例の如く、心臓鼓動が「ごとん」と階段を踏み外した様な 衝撃の後急に治まった。其の後が大変である。ずぶ濡れになって体の調子を狂わした のを引き金に発作が度々でる様になった。体の疲れたときなどは日に2回も発作がでた。 その日を境に、就寝中、仕事中、あらゆる時に頻繁に発作が現れ出した。 当時の発作を鎮める治療法は、ブロック剤を点滴投与するか、電気除細動装置で強制 的に頻脈を取り除くかの方法が治療の柱だった様に思う。予防薬として「リスモダン」と言う薬を服用していた。
ある時(国立循環器病センター)
私は、国立循環器病センターのことを知った。 私は通院治療中、当時の担当医に国立循環器病センターに紹介状を書いて貰った。 WPW症候群の治療の為、国立循環器病センターに通うようになった。通院する様に なってからも頻繁に発作は現れた。夜中発作が出てセンターに駆け込んだ事もある。 通院中特別な治療法も無かった。唯漫然と予防薬を受けるだけだった。 そんな或る日、58年7月3日(日曜日)付けの産経新聞のある1ページに目が留まった。 「治療の最前線」不整脈WPW症候群、手術療法で効果・余分な通路を切断とあった。 当時の金沢大学医学部付属病院・岩喬教授・当時この分野では世界をリードしている 存在だった。私はその記事を持って循環器センターの担当医に相談した。その際の話は  今はうろ覚えであるが、「循環器センターではまだ確立されていない」というような話だった 様に思う。其の後発作の繰り返しで9年位が過ぎた。
平成5年(カテーテル・アブレーション)
の事だったと思う。診察日、当時の担当医が「手術をしましょう。」突然言ってくれた。 私は即座にお願いします。と即答した。妻の了解も得た。 手術のリスク、手術の方法等の説明があった。 手術の方法は「カテーテル・アブレーション」大腿部の足の付け根の静脈よりカテーテル をいれ、心臓まで送り込む。先端には電気メスがついている。人為的に発作をつくり 発作の部位をコンピュータで測定し、発作の起きている余分な副伝導路を電気メスで 焼き切る。と言う方法だ。手術時間3〜4時間。成功率70〜80%。合併症200分の1。 そして手術前のデーター取が始まった。手術日も決まり、後は待つだけだ。 手術日、不安な気持で迎えを待つ。恥毛は前もって剃ってある。尿道に採尿管を挿入する。 そして手術室へ。静脈切開部に局部麻酔をうつ。そして手術開始、カテーテル2〜3本が 心臓に向かって進んでいく。モニターに映し出されているので患者にも良く見える。 そして人為的に発作を造る。この時が一番苦しかった。体全体が跳ね上がる様だった。 副伝導路を切断。発作がおさまった。私にとっては誠に記念すべき一瞬だった。そして記念 すべき1日だった。発作を起こしてから15年間の苦労、じっと耐えた甲斐があった。 執刀医が耳元で「成功ですよ。」と言ってくれた。思わず涙がでた。
(右上の図は、当時の担当医が説明しながら書いてくれたものだ。宝物として大事に保管してある。)
昭和58年4月(振り返ってみて)
頃に鬱病を発症して、その年の毎日は地獄だった。自分はどうなっているんだ。 何でこんなに虚しいんだ。何でこんなに憂鬱なんだ。何でこんなに何もかも億劫なんだ。 何でこんなに眠れないんだ。何でこんなに人と逢うのが嫌なんだ。何で何でがいっぱい でてきた。
その年の6月頃(家族は私のことをどのように見ていたのか)
だったと思う。家族連れで私の下の弟の家に遊び行った。枚方市にある。 今でこそ家々が立ち並んでいるが、当時は田んぼの中に2〜3軒の新興住宅地だった。 その時のことを今でもはっきり覚えている。弟夫婦が我々を一生懸命持て成してくれようと するのが良くわかる。しかし私の心は反応しない。反応しないではなく反応出来ないのだ。 あらぬ方向を見てボーっとしている。子供達が遊びに行こうと言うので、田んぼに行く。 しかしまったく遊ばせてやれないのだ。とにかく億劫なんだ。憂鬱なんだ。 それしか頭の中は考えられ無かった。そのときの私の顔の表情は、能面の様だったと思う。 そして目は虚ろだったと思う。
昭和59年お正月(妻が私を力付け様としてくれて)
義父の家に正月休で泊まっていた。2日の日だったと思う。 前日の晩、女房が兄弟たちと長島温泉に遊びに行く話を進めていた。当日の朝が来た。 しかし私は例の如く一睡もしていない。相変わらず眠れないのだ。こんな調子が何ヶ月 続いているのだろう。寝床には入るが唯横になっているだけだ。 だから長島温泉など行きたくないのだ。家で横になっていたいのだ。誠にそれが偽らざる 気持だった。しかし出掛けた。ほとんど寝ていないので運転が心配だ。何とか目的地に は着いた。しかし相変わらず私の動きは緩慢だ。皆が楽しく遊んでいるいるのを横目に 私はベンチに座ったまま石の様に動かない。その楽しさの輪に入れないのだ。
そして(克服へのきっかけ)
その年の3月頃突発性難聴の治療の担当して下さっていた女医先生が私の 行動を注意深く見て下さっていてようだ。それから62年夏頃まで鬱病の 治療が続いた。
結局は
融通の利かなさが原因であったように思う。生真面目で責任感の強い人が 掛かり易いと言われている。ようするに柔軟性にかける人が陥り易いということだ。 世の中の事、自分1人で何もかにも出来る訳がない。フレキシブルに行かなければ。 心の病をしてわかった。言葉は悪いが「多少ずるく」「ある程度ふしだらに」そして 「なる様になるさ。」を実践することが、心にゆとりを持たせる。
今(私は3つの大病をこの歳月に同時に経験した。どの病気も恐ろしかったが、特に、最後に現れた鬱病は私の心を支配した)
「鬱病」心の病に掛かっている方々、この病気決して恐れることはない。 私の経験で得た結論は、必ず直るという事だ。あんなに苦しんだ私が良い見本だ。 万が一にこの様な憂鬱な気持になったら、直ぐ病院の門を叩く事だ。そして全てを話す。 そして家族に打ち明け、治療に協力してもらう。家族の理解、協力が一番の良薬だ。 そしてこの病気は隠す事はない。現在のストレス社会では、誰にでもなりうる可能性 が在るからだ。いや、現代人は皆クライアントかもしれない。 私は現在66歳。まだ現役で働いている。後2〜3年無理をせず、細く長く行く。 私は可能であるなら、この貴重な体験を心の病で悩んでいる人たちに語りかけたい。 私はこの病気を皆の力添えを得て、克服できる事を身をもって体験した。
病気の克服。頑張り過ぎない事だ。なんと言っても一番の力添えは家族の温かい愛だ。 特に心の病を克服するには、伴侶、家族の愛、思いやりほど大切なものはない。早期完治への 近道と断言してもよい。