三室戸寺は 京都府宇治市莵道滋賀谷21に所在する。山号は明星山で宗派は本山修験宗別格本山。本尊は千手観音(秘仏)創建年は伝承によると宝亀年間(770年〜781年)で開基は光仁天皇。西国三十三箇所10番 鞍馬寺/貴船神社(京都)《戻》 《次》 三千院/寂光院(京都)  紫陽花/花の寺・三室戸寺

お寺・神社を訪ねて/三室戸寺/平等院(京都・宇治)

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西国十番三室戸寺そして平等院を訪ねた。三室戸寺は花のお寺 といわれる。秋になると紅葉の名所となる。2010/11/13
御詠歌「夜もすがら 月を三室戸わけゆけば 宇治の川瀬に立つは白波」
2010/11/13・京都宇治・三室戸寺 木々のむせ返るような色づきに埋もれるように、三室戸寺の屋根が顔を覗かせていた。秋は益々深まり紅葉も最終期を迎える。やがて寒い冬を迎える準備なのだろうか、落ち葉が山道の風に舞っていた。
三室戸寺本堂
文化11年(1814年)に再建された重層入母屋造の重厚な建物で、秘仏の千手観音立像が安置されている。 (三室戸寺は現在本堂前が修復中)
三室戸寺には滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見たとの伝説もある。
2010/11/13・三室戸寺の枯山水
三室戸寺の枯山水・五千坪あるといわれる大庭園は枯山水・池泉・広庭からなり、5月のツツジ(2万株)石楠花(1千本)6月の紫陽花(1万株)7月の蓮、秋の紅葉など美しい花模様を楽しめる。
茶の名産地・宇治 三室戸寺の直ぐ脇にある茶畑、三室戸寺の敷地内にある。規則正しくなだらかに茶畑がうねる。周りの紅葉に混ざることもなく緑のじゅうたんが敷き詰められている。ご存知宇治はお茶の名産地だ。宇治の町を歩くと何処からともなく、何ともよい茶の匂いが鼻をくすぐる。 2010/11/13・秋の紅葉 三室戸寺 三室戸寺の紅葉・三重塔が紅葉の間から背伸びするようにそびえる。この寺の紅葉は鮮やかな赤、そして鮮やかな黄色が混ざる。 宇治の紅葉はこの他に「琴坂」「紅葉谷」などがある。三重塔は兵庫県三日月町の高蔵寺にあったものを、明治43年(1910)に移したもの。建造からは300年の時を経ている。
池泉庭園 池泉庭園。何とも美しい池。錦鯉が悠然と泳いでいた。真っ赤に色づいた木の葉が水面に揺れる。錦鯉が水面に写る紅葉の中に融け込んでいく。 池泉庭園 「暮れはつる 秋のかたみにしばし見ん 紅葉散らすな三室戸の山」 西行
芭蕉 「山吹や 宇治の焙爐の 匂ふとき」 芭蕉。
芭蕉の句が石に刻まれていた。
三室戸寺階段 石段の両側か迫り来る紅葉。何と贅沢な石段なのだろうか。少々きつい石段だが、紅葉を間近に感じながらだと疲れも消し飛ぶ。
平等院・古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。2010/11/13
平等院 平等院は、京都府宇治市にある藤原氏ゆかりの寺院。古都京都の文化財として世界遺産に登録されている。本尊は阿弥陀如来で開基は藤原頼道。鳳凰堂は10円硬貨の表の絵柄である。現在特定の宗派に属さず単位の仏教寺院である。
救世船乗観音 江戸時代以来、現在の鳳翔館南西角あたりに旅の安全と、無事を祈願し浄土院子院として、観音堂が建立されていた。
詳細は案内板を拡大
救世船乗観音説明板 上・救世船乗観音説明板
下・浄土院羅観堂説明板 浄土院羅観堂
浄土院羅観堂
浄土院羅観堂・棟札からは、この堂は寛永17年に建立され、大工は京の善衛門、仏師が京の伊兵衛、施主は宇治茶師の星野浄安道斎。
詳細は案内板を拡大。
平清盛の横暴に憤りを感じていた源頼政は以仁王の呼びかけに応じた 2010/11/13
[1179年11月14日 清盛は後白河法皇を幽閉する]   《戻》 寂光院・建礼門院
源三位頼政の墓の説明

扇之芝(宇治平等院境内内にある)/ 源三位頼政

平清盛の横暴に憤りを感じていた源頼政は以仁王の呼びかけに応じた。治承4(1180)年5月26日、源頼政は高倉宮以仁王を奉じて平家打倒に立ち上がった。だが計画が露見し平清盛の知る所となった。準備不足のまま挙兵を余儀なくされ、平知盛の大軍を宇治川に迎え撃ったのだが、しかし戦利無く流れ矢に傷ついた。頼政は軍扇を開き、「埋もれ木の 花さくことも無かりしに 身のなる果てぞ哀れなりける」と辞世の一首を残し、この地で自刃したと伝えられている。77歳の老齢であった。以仁王は脱出したが、追いつかれて討ち取られた。頼政と以仁王の挙兵は失敗したが、以仁王の令旨の効果は大きく、これを奉じて源頼朝、源義仲をはじめとする諸国の源氏や大寺社が蜂起し、治承・寿永の乱に突入し、平氏は滅びることになる。

源平争乱の時代/平清盛

清盛には革新性があった。勅興期にあった軍事貴族・伊勢平氏の嫡男として生まれ、「保元、平治の乱」の勝者となった。日宋貿易を推し進め、莫大な利益を上げた。宮廷にも働きかけ、承安(じょうあん)元(1171)年12月には娘の徳子(建礼門院)を高倉天皇の女御とすることに成功した。娘を入内(じゅだい)させ、誕生する次期天皇の外祖父となって実権を握るのは、藤原摂関家が長く使った戦略であった。それだけでは目新しくない。清盛の心の中には、朝廷と力を持ち始めた武家とを一体化させたまったく新しい権力を創り出す夢があった。 しかし、朝廷の実権を握っていた後白河法皇はしたたかだった。清盛との間を取り持ってくれていた建春門院(平滋子、清盛の義妹)や清盛嫡男の重盛が亡くなると清盛を挑発し、追い詰める行動にでた。治承3(1179)年11月14日、福原(神戸市兵庫区)に引きこもっていた清盛は数千騎を率いて京に上り、ついに法皇を幽閉してします。軍事クーデターであった。 翌12月16日、京都・西八条にあった清盛の屋敷を孫の言仁親王(ときひと・後の安徳天皇)が訪れた。清盛はわずか2歳の親王を膝に抱き続け、しゃぶった指で穴を開けた障子を、蔵に保存するよう命じたという。朝廷と武家を統合する新王朝は、この言仁親王によって開かれたはずだった。しかし翌年、法皇の第2皇太子、以仁王(もちひとおう)が平氏打倒を掲げて挙兵した。世は源平争乱に突入した。
扇之芝
扇之芝・戦いに敗れた源三位頼政はこの場所で自刃した。七十六歳の老齢だあった。 源三位頼政 辞世の句 「埋もれ木の 花さくこともなかりしに みのなるはてぞ 悲しかりける」
扇之芝 扇之芝 源三位頼政の墓 平清盛の横暴に憤りを感じていた。高倉以仁王(もちひとおう)と手を結び平氏打倒の挙兵をするが、計画が露呈し窮地に追い込まれて・・・
宇治大橋 宇治橋
千三百年以上もむかし、大化二年(646)に初めて架けられたと伝えられる、わが国最古の橋。その長い歴史の中で、洪水や地震などの被害、もちろん戦乱に巻き込まれたこと数え切れない。しかし橋はそのつど架けなおされてきた。ここ宇治が交通上重要な場所でありつづけたことの表れだろう。またこの橋は古今和歌集や源氏物語をはじめとする文学作品、絵画や工芸品といった美術作品に描かれるなど古くから景勝地、宇治の象徴として親しまれてきた。
現在の橋は長さ155.4m幅25m
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